2017年9月24日日曜日

東京国立近代美術館 藤田嗣治《武漢進撃》をじっくり鑑賞した 2017-09-22 / (年表)昭和13年10月27日 日本軍の武漢三鎮占領 ~ 10月30日 蒋介石「全国官民に告ぐるの書」

9月22日、東京国立近代美術館。
藤田嗣治《武漢進撃》1938-40

藤田の戦争画といえば、アッツ島、サイパン島、ハルハ河の大作を連想するが、この武漢進撃はそれらの大作に比べると素っ気ない印象を持っていた。いつも大概は素通りだった。

今回、時間に余裕があったのでじっくり鑑賞させてもらったが、ぱっと見では判別できないけれど、なかなか細かいところまできっちり描かれていることがわかった。

▼よほどじっくり見ないと、揚子江対岸の建物の様子などは識別できない。
(実際にはしっかり描かれている)

▼船の配置が示されている

▼絵の中央部分。
左がヤエヤマ、右(中央)がクリ

▼クリの更に奥の戦艦、対岸の景色までもしっかり描かれている。



▼ヤエヤマの船上

【黙翁年表より】
昭和13年
10月27日
・日本軍、武漢三鎮占領。26日、漢口・武昌、27日、漢陽。
既に日本陸軍は中国戦線に23個師団(70万人)投入。日中戦争は本格的対峙の段階に入る。

漢口攻略参加日本軍30万超、戦死9500・戦傷2万6千損失。
作戦終了時の日本の兵力配置は、中国に24個師団(華北8、華中13、華南3)、満州8、朝鮮1、内地は近衛師団のみ、台湾は軍司令部があるのみで、手持の動員可能師団は皆無。
前年(昭和12年)7月、盧溝橋で戦闘が始まった時、石原参本第1部長は陸軍省に対し、「現在の動員可能師団は三十個師で、そのうち十五個師しか支部方面にあてられないから到底全面戦争は出来ない。然るにこのままでは全面戦争化の危険が大である。その結果は恰もスペイン戦争におけるナポレオン動揺、底なし沼にはまることになる」と訴えたが、事態はまさにその通り、「重慶軍はどんどん奥地へ引き揚げて日本は手のつけようがなくなってしまった」。
対ソ軍事バランスも大きく崩れ、13年末の在極東ソ連軍24個師団に対し、在満鮮日本軍は10個師団。日本にとって安心材料は、張鼓峯で「ソ連が立たないことを確かめる」ことが出来たこと。

漢口への道は苦難の道。
至るところ破壊された悪路を行く第2軍の補給が第1の問題。食糧は、最初から現地徴発の計画で、作戦が秋期に組まれたのは、現地で穀物が実っている収穫期を狙う意味があったという。次に、第2軍には大別山系、南西の第11軍方面には廬山山系があり、南山系が漢口前面の自然の防壁となっている。中国側はこの山中を要塞化して日本軍を迎えうち、日本軍は大きな損害を出す。
10月26日、揚子江北岸の第6師団が漢ロに突入、占領するが、第2軍はまだ大別山系を抜けられなく、漢ロに入った第2軍兵士は、補給のよい第11軍兵士よりみすぼらしい恰好であったという。
大本営はこの作戦で、徐州で逃げられた中国軍主力の撃滅を期したが、その目的は達せられず。
しかし、漢ロを失い、広東を占領され香港への道を塞がれた事は、四川省重慶に移った国民政府にとって、軍事約・経済的な大きな痛手であり、その上に政治的打撃を加えれば国民政府を倒せるであろうというのが、日本側の思惑。

武漢まで進撃した日本陸軍は、そこで進軍を止める
武漢の西270Kmの宜昌以遠に広がる峨峨たる山波と心細く続く「蜀の桟道」の走破は困難。一方、海軍も宜昌より上流の「長江三峡」と云われる揚子江の峡谷地帯、難所の遡航作戦もまた困難。
中支那派遣軍司令官畑俊六大将は、「国民の注意を促したいのは武漢は陥落したが、戦争は断じて終幕を告げたのではないということである。引続き敗敵を追究、残敵を殲滅しなければなら」(「東京日日」10月29日)ず、「事変の前途はなお遼遠にして、これが解決には更に挙国一致堅確なる決意を要することを切に痛感する」(「同」11月4日)と語る。
この大作戦も戦争収拾の展望を開くものではない。
兵站線は延び切り、漢口・広東が日本の軍事力の限界である。これ以降、間欠的な局地的作戦は実施されるが、大規模侵攻作戦は行われなくなる。

漢口W基地の建設。
大武漢とも武漢三鎮とも称される3地区(漢ロ、武昌、漢陽)の内、揚子江沿い漢口に現地司令部や需品供給所が次々に開設。陸海軍航空隊所属の爆撃機、戦闘機、輸送機が集まって来る。
揚子江に面した日本軍の接収地「軍事区」に倉庫群の建設が急がれ飛行場整備から慰安所づくりまで慌ただしく進む。中国人は「特区」又は「日本区」と呼ばれる軍事区に住めず、背後の難民地区に押し込められ、「安居証」なしには外へ出ることは許されない。
日本側は、武漢攻略後の戦争指導に関し、これ以遠の地上進攻は考慮外という一点では、政府・軍中央・派遣軍3者の認識は一致。行く手には大巴山脈の連峰が立ちはだかり、武漢より上流の揚子江に艦隊を進ませるのは不可能。また、陸軍はこの時迄に手持ち兵力のほぼ全力を投入し、日本本土に近衛師団を残すのみという状態で、補給線も伸びきり、新戦線を設定する弾力性はなく、武漢をもって地上部隊の攻勢終末点とする案を受け入れる。
*
10月27日
・仏、【フランス人民戦線崩壊】急進社会党マルセイユ大会、共産党との絶縁決定。ダラディエ仏首相、人民戦線離脱を宣言。11月10日、人民戦線全国委に通告。人民戦線崩壊。
*
10月28日
・第1期2次国民参政会。~11月6日迄、重慶。徹底抗戦強調。
*
10月28日
・天皇、初めて白馬「白雪」に乗り、二重橋の正門鉄橋に現れる。
「御馬上御颯爽たる大元帥陛下の御英姿を拝し奉った民草はこの恩ひがけぬ光栄に感激その極に達し、一斉に最敬礼申上げ感泣して万歳を奉唱したのであった」(「東京朝日」29日)。
侍従の入江相政はこの模様を、「お上は御乗馬で二重橋の鉄橋へ御出ましになる。民草の旗行列を御覧になる。非常に御満足げに拝した」と記す。
この日夜、天皇は香淳皇后と共に再び提灯をもち30分間、再び正門鉄橋に現れる。
*
10月28日
・近衛首相、仏印経由援蒋物資に対仏警告
*
10月28日
・商工省、木炭ガスの国策乗用車5種を発表。
*
10月28日
・ドイツ国内のユダヤ系ポーランド国籍所有者1万5千人に国外退去命令。ドイツ・ポーランド国境に強制移送。
*
10月29日
・外相有田八郎任命(9月30日に宇垣が辞任し、近衛が兼任していた)。八田嘉明、拓務大臣に就任。
*
10月29日
・大島浩駐在武官、駐独大使就任
*
10月30日
・蒋介石、「全国官民に告ぐるの書」。
「わが国の抗戦の根拠は広大深長の内地にあり・・・勝敗の鍵は持久抗戦力の保持にある。保衝武漢の任務は終り、目的はすでに達せられた」<抗戦第一期の終り>

「わが抗戦根拠は、狭小な沿江、沿岸地帯ではなく広大深遠な奥地にある。武漢保衛戦の意義は、敵の西進を阻滞させ、敵の実力を消耗し、わが後方交通を準備して必要な武器を輸送し、わが南東と中部の工業を奥地に移転させ、北西、南西の交通経済の建設を進行させることであった。今や戦局の転換と長期政策の必要から武漢を放棄した。これをもって戦勢の不利とか退却と考えてはならぬ。軍事的には守勢から攻勢への転換を画するものである」

「敵は一時武漢を占領したがそれは十一カ月の月日を費やし、数十万にのぼる死傷者の犠牲を払わせられた結果なのだ。しかも敵が手に入れたのは焦土と空っぽの都市であった。敵は武漢で我が主力を撃滅して短期決戦に勝つという重要目的に失敗した。今後我々は全面的抵抗を展開するであろう。我が軍の移動は退却であろうと前進であろうと制限されない自由なものとなるであろう。主導権は我々とともにあるだろう。これに反し敵は何一つ得るところがない。敵は泥沼に深く沈んでますます増大する困難に遭遇し、ついには破滅するであろう」(董顕光「蒋介石」)

抗戦首都・重慶。
武漢陥落~重慶の根拠地建設の間、沿海・沿岸地方から1千万近くの人口が、戦火に追われ、また抗日の意気に燃え、西南・西北地方に移る。
うち700万は四川省に入り、100万以上が四川省第2の都市・重慶(武漢から、江の流れで1370Km、飛行距離780Km、人口33万9204人)とその周辺に居を定める。

①北平(北京)の故官博物院の文物2万箱は「満州事変」直後、南京博物館に移され、ここで3群に分散、うち1群が武漢~重慶に持ち込まれ、後に峨眉山のふもと楽山の村に隠される。
②日中戦争開始時の108大学・4万余の学生のうち52校が四川省などの後方地区に移り、19校が重慶に移る。抗戦前の重慶大学・四川省立教育学院2校が、中央大学(南京)・復且大学(上海)・交通大学(同)など総合大学、国立音楽学院(南京)・国立芸術専科学校(杭州)・国立江蘇医学院(鎮江)など専科大学のほか、陸軍大学・兵工学校もま移設。これら大学は、重慶の「二大文化区」と呼ばれる、市内の沙磁区と郊外の白砂鎮に集まる(沙磁区はやがて日本軍機の集中爆撃を受ける)。周恩来の学んだ天津の南開中学校も校長張伯苓と共に移って来る。
③重慶を発行地とする主要紙は、朝刊10紙・夕刊3紙で、通信社は国民党統制下の中央通訊社(中央社)に代表されるが、「大公報」(上海)、「中央日報」(南京)、「掃蕩報」(武漢)など有力紙は移入組に占められる。これら新聞のなかには中国共産党が国民党地区で発行する唯一の日刊紙「新華日報」も含まれる(1938年1月11日武漢で創刊され、同10月25日付より重慶に移転、47年2月28日、国民政府によって強制停刊させられるまで3231号、9年1ヶ月18日に亘る)。「新華日報」を指導したのは「八路軍重慶代表」「中共中央南方局書記」周恩来で、周自身たびたび社説の筆をとり蒋介石の反共政策を激しく非難、発禁措置に抗議。
④商務印書館、中華書房、生活書店など出版社も、重慶に本拠を移す。上海で抗日救国の論陣を張っていた鄒韜奮は、武漢~重慶に移り「全民抗戦」(週刊)を発行し、生活書店の支店網を全国50余ヶ所に拡大、国民党の弾圧と戦いながら、進歩的言論活動の第一線に立つ。
*
10月30日
・米、H・G・ウェルズの小説『宇宙戦争』をラジオ用に脚色した「火星人襲来」をオーソン・ウェルズが放送。あまりに真に迫っていたためパニック。
*
*






高倉健さんからの言葉 「冷に耐え 苦に耐え 煩に耐え 閑に耐え 競わず 争わず 以て大事を成すべし」(俳優石倉三郎さん)(『朝日新聞』2017-09-21)

高倉健さんからの言葉
冷に耐え 苦に耐え 煩に耐え 閑に耐え
競わず 争わず 以て大事を成すべし
俳優石倉三郎さん


大正12年(1923)9月16日 大杉栄・伊藤野枝・甥橘宗一らの虐殺(その4) 10月8日 第1回軍法会議(午前の尋問) 大杉殺害の様子が検察官調書と微妙に異なる

大正12年(1923)10月8日 
第1回軍法会議
■殺害にいたる経過についての尋問
・前日の状況
「十五日に帰隊するため自動事に乗りこもうとしたとき、淀橋警察署の署員から、明日は大杉を絶対引っ張りだしてやると言われました。大杉を呼び出すには藤田某の名前を使った方がいい、藤田は大杉のフランスへの渡航費を出してやっている、大杉には現内閣の某大臣からも金が出ているとも言っていました」

*「藤田某」
藤田勇。昭和7年の5・15事件、翌年の神兵隊事件、昭和11年の2・26事件などで黒幕といわれた男。昭和5年に桜会を結成して軍事クーデターを企てる急進派軍人の橋本欣五郎や大杉栄ともパイプをもっていた。
のち甘粕は、藤田から政治工作資金の提供を受けていた橋本欣五郎に接触して、満州の謀略工作に加担することになる。
*「現内閣の某大臣」
内務大臣後藤新平。大杉の『自我傳』によると、大杉は後藤に金の無心に行った時、大杉が「政府が僕らを困らせるんだから、政府に金を無心するのは当然」と言うと、後藤は「ようごわす。差しあげましょう」と答えたとある。金を無心にきた大杉に気前よく大枚をくれてやった話は、専門家筋の間では当時からよく知られていた。

「それで翌十六日、森曹長、本多上等兵、平井伍長を連れて、大杉の居所に出かけました。むろん大杉を殺すつもりで出かけたのです。淀橋署でも私らの目的はわかっていたようです。しかし大杉は朝出かけたようで、居所にはいませんでした。けれど大杉は近頃では自警団を非常に怖がっているので、夕方には必ず帰ってくるとのことでした」
(大杉はこの日、鶴見に避難していた弟の勇の震災見舞いをするため、新宿から日比谷行きの乗合自動車に乗り、日比谷で乗り換えてまず品川まで行った。そこから京浜電車で川崎に行き、あとは徒歩で勇の避難先に向かった。そこに預けられていた宗一少年が、東京の火事の焼け跡が見たいというので連れて帰った)

- 大杉が帰宅するのをどうやって待っていたのか。
「淀橋署で大杉の家を張り込んでいるのは困るといわれたものですから、彼の家から二丁ばかり行ったところで待っていました。そこへ井上とかいう尾行巡査がやってきて、大杉が帰ったことを知らせてきました。間もなく、七、八歳の子どもを連れた夫妻が姿を見せましたので、同行を求めたのです」

- どういう理由を言って同行を求めたのか。
「何も理由は申しません。ただ同行してくれと言っただけです」

- 野枝と子どもはどういうつもりで同行させたのか。
「別に大した理由はありません。ただ連れて行った方がよいだろうと思ったからです」

- 大杉だけを殺す目的なら、何も野枝や子どもまで同行させなくてもよかったのではないか。
「ただいま申しあげた通り、全員連れて行った方がよいだろうと思ったからです。もっとも、場合によっては野枝も片づけるかもわからん、という考えはありました。けれど、そうはっきり決めていたわけではありません」

- 最初から殺さぬつもりで同行したものを場合によったら殺す考えだとは,何だかよく意味がわからない。そもそも子どもは誰の子と思っていたのか。
「むろん大杉の子だと思っていました」
(甘粕は最初、淀橋署まで3人を連行し、淀橋署前に停めてあった自動車に乗せて運ぼうと思ったが、女子どもを淀橋署まで歩かせるのはかわいそうなので、野枝と宗一は淀橋署員と連携してそこまで尾行してきた東京憲兵隊上等兵の鴨志田安五郎の自動車に乗せ、大杉は淀橋署に徒歩で連行後、甘粕、森と一緒の車に乗せて大手町の憲兵隊本部に向かった。午後6時半頃のことだった。)

ー 三人を連行した憲兵隊ではいかなる方法で殺そうとしたのか。
「憲兵として殺すのではなく、私個人としてヤッツケるつもりでしたから、なるべくわからないようにやろうと思いました。銃器を使えば,銃声でわかってしまうので、手で絞め殺そうと思いました」

ー 殺害後の覚悟はどうだったか。
「他日必ず知れると思っていましたから,当然罪を負う覚悟でした。私は単に大杉一個を殺すだけで足りるとは思っていませんでした。堺利彦や福田狂二らの危険分子は片っ端からヤッツケるつもりでした」

(30分の休憩)

- 大杉栄を殺害したのはどこか。
「憲兵司令部の階上応接室です。そこには私が命じて、森曹長が連れて行きました」

- 森に殺害のことを話したか。
「話したかどうかはよく記憶していませんが、森は私の殺意を推知していたと思います」
「しばらくしてその部屋に行くと、森は大杉と何事か話していました。私は一言も言葉を交わさず背後に回り、大杉の喉の部分に後ろから右手をまわし、その手で左手の手首を握って、締めつけました」
(甘粕はそう言って両手をあげ、大杉を絞殺したときの仕種を再現して見せた。)
「さらに締めつけると、大杉は少しもがき椅子を半回転ほどさせて右の方から落ちました。それから右脚を折り曲げて尻の下に敷き、左膝を立てた折敷(おりしき)の姿勢とは反対の姿勢をとり、右手を大杉の背にあてる柔道の絞め手で手をゆるめずにいると、大杉は十分くらいで絶命しました」

(検察官調書では、甘粕は右膝頭を大杉の背骨にあて、柔道の絞め手で絞殺しました、と述べているが、ここでは右手を大杉の背にあて、と微妙に食い違っている。殺害した本人が、殺害方法を間違えて記憶しているとは常識的には考えられない。)

- その後、麻縄で首を絞めたのか。
「そうです。別に麻縄で絞めなくともよかったのですが、万一息を吹き返すといけないと思ったので、念のため巻きつけたのです」

- 大杉を殺害するとき、森はどうしていたのか。
「ボンヤリ立っていましたが、私が命じて大杉のもがく足を押さえさせました。そのとき私は眼鏡を落としましたが、殺してしまってから自分でとりあげてかけました。殺したのは八時二十分頃で、連行してから一時間半くらい経っていたと思います」

ー 大杉を連行してから大杉と会話をかわさなかったのはなぜか。
「会話をかわしては工合いが悪くなるだろうと思ってかわしませんでした。森に命じて部屋に入れさせたのですが、私は別室にいた子どもがかわいそうになり、子どもにやる菓子をもっていってやったりしていました。大杉や野枝にも食事を運ばせ、私も事務室に戻って食事をすまし、それから事務をとりました。
大杉に対してほ渡仏後や震災後の活動状況を開こうと思っていましたが、仕事の都合で落ち着いて聞くことができませんでした。私の代わりに森に聞かせようと思いましたが、森ではわからないだろうと思い、大杉を入れた部屋に行き、何も聞かぬまま殺害に及んだようなわけです」

(午前の尋問はここで終わる)


つづく



ワシントン・ポスト、ABCの世論調査。国民の三分のニが北朝鮮への先制攻撃に反対。四分の三が経済制裁の強化を支持。42%がトランプ大統領の北朝鮮対応能力を「全く信頼できない」。72%が軍のリーダーシップを信頼。 / Poll: 2/3 of Americans oppose preemptive strike against N. Korea. Most trust military, not Trump, to handle crisis. — Washington Post


2017年9月23日土曜日

(YouTube)Argerich - Tchaikovsky: Piano Trio in A minor Op. 50 (1998) チャイコフスキー ピアノ三重奏曲 イ短調 作品50 『偉大な芸術家の生涯』


Argerich - Tchaikovsky: Piano Trio in A minor Op. 50 (1998)
Martha Argerich, piano
Gidon Kremer, violin
Mischa Maisky, cello

【暴言マヒ、人間性の欠落(射殺が第一に来るその発想)、即罷免(クビ)を】 麻生副総理「警察か防衛出動か射殺か」 北朝鮮難民対策(朝日新聞);「武装難民かもしれない。警察で対応するのか。自衛隊、防衛出動か。射殺ですか。真剣に考えなければならない」 ← 「南京」の「便衣兵」と同じ発想だな / 「大震災」の時の「朝鮮人が攻めてくる」という発想とも         








-----------------------------------

東京国立近代美術館(MOMAT)コレクション展の東山魁夷特集で眼福な半日を過ごした 2017-09-22

9月22日(金)、久しぶりに竹橋の近代美術館に。
外は雨だったので、4F~2Fを2往復してじっくり鑑賞した。
眼福な半日であった。

いま、コレクション展では所蔵する東山魁夷の作品全点(17点)が展示されていて、これはゼッタイ見ものだと思う。

以下、コレクション展HPより。

東山魁夷特集

 東山魁夷(1908-1999)は、皇居新宮殿の障壁画や、唐招提寺御影堂の障壁画も手掛けた国民的人気を誇る日本画家です。東京国立近代美術館では東山本人から寄贈を受けた作品を含め、本制作だけでも17点を所蔵しています。

 今回の特集展示では、その17点すべてを一挙公開します。会場は所蔵作品展「MOMATコレクション」(4階~2階)の2部屋。自身が風景に開眼した記念作だと語った《残照》(1947年)、前方へまっすぐつづく道だけを描いた《道》(1950年)、北欧旅行の印象をもとに構成した《冬華》(1964年)など、東山のエッセンスがギュッと詰まった特集展示をお楽しみください。

(略)

東山魁夷(1908-1999)について

横浜生まれ。東京美術学校日本画科(現・東京藝術大学)を卒業後、ドイツに留学して美術史を学ぶ。戦後、1947年に日展に発表した《残照》が特選を受賞し、風景画家として再出発を果たした。1950年の《道》をはじめ、構図や色を整理した平明な作風により、国民的な人気を集めた。

取材旅行に出かけては連作を描いたことでも知られる。1962年の北欧旅行では、帰国後1964年まで3年にわたって北欧主題による制作を続けた。同様の連作に京都(1965年~68年)、ドイツ・オーストリア(1969年~72年)などがある。

また、1960年に新築なった東宮御所の壁画、1968年完成の皇居新宮殿の障壁画を担当し、1970年代には約10年をかけて唐招提寺御影堂の障壁画制作に取り組んだ。

1999年に没。墓所は長野市にあり、唐招提寺にも分骨されている。

出品作品について

《残照》 1947年
《道》  1950年
《秋風行画巻》 1952年
《たにま》 1953年
《晩照》 1954年
《山かげ》 1957年
《秋翳(しゅうえい)》 1958年
《木霊》 1958年
《暮潮》 1959年
《青響》 1960年
《雪降る》 1961年
《黄耀》 1961年
《映象》1962年
《冬華》 1964年
《白夜光》 1965年
《月篁》 1967年
《白い朝》 1980年


▼《白い朝》 1980年

▼《映象(えいしょう)》1962年

▼《冬華》 1964年

▼《白夜光》 1965年

▼《たにま》 1953年

▼《雪降る》 1961年

▼《道》  1950年

▼《晩照》 1954年







大正12年(1923)9月16日 大杉栄・伊藤野枝・甥橘宗一らの虐殺(その3) 暗殺の準備(甘粕麹町憲兵分隊長を兼任する) 軍法会議(10月8日~) 甘粕非難の声と減刑嘆願運動

■甘粕、麹町憲兵分隊長となる(大杉暗殺の準備)
甘粕は、大震災当日の9月1日、渋谷憲兵分隊長でありながら抜擢されて麹町憲兵分隊長との兼務を命じられた。麹町憲兵分隊は、東京憲兵隊本部直轄の近衛師団的存在で、規模も大きく、分隊長には佐官クラスが就くのが通例で、その分隊長に大尉の甘粕が就くのは、2分隊の隊長を兼任することを含め、前例のない人事。甘粕の前任の麹町憲兵分隊長は、後に東京憲兵隊長から少将になる持永浅治で、麹町憲兵分隊長当時は少佐(佐官)である。
人員配置では、東京憲兵隊本部の人員が補助憲兵を含め32名、麹町憲兵分隊の人員は補助憲兵を含め190名となっており、ライン部門の麹町憲兵分隊がスタッフ部門の東京憲兵隊の実働部隊の位置付けとなっている。他に、東宮御所・秩父宮邸を警護する赤坂分隊が36名、渋谷分隊が29名など。

「治安維持の最前線部隊を自任し、社会主義者や無政府主義者、さらには「不逞鮮人」らを何とか検挙しようと手ぐすねをひいていた東京憲兵隊にとって、帝都を揺るがした関東大震災下の戒厳令は彼らを一網打尽にする千載一遇のチャンスだった。
甘粕が”東京憲兵隊の近衛師団”といわれた麹町憲兵分隊のトップを兼務したこの前例のない人事異動は、無政府主義者の巨頭の大杉栄を明らかに視野に入れた、いうなれば”大杉シフト”だった。」(佐野)

甘粕は、名古屋の陸軍幼年学校から陸軍士官学校(24期)に進むが、陸軍戸山学校在学中の大正4年(1915)、膝関節を怪我する不慮の事故に遇い、念願の歩兵への道を諦め、憲兵になることを余儀なくされている。甘粕は千葉刑務所収監中に書いた獄中記で、「私は憲兵になった時もう靖国神社に祀られることがないのかと思ったら淋しい気がした」と記している。
甘粕は、朝鮮の京畿道楊州憲兵分隊長、市川憲兵分隊長を経て、大正11年1月、渋谷憲兵分隊長になっている。この渋谷憲兵分隊長時代に甘粕は朴烈事件を摘発している。
朴烈は、豊多摩郡富ヶ谷で内妻金子文子と同棲中の大正12年8月中旬、所轄の渋谷憲兵分隊に内偵され、これが半月後の大震災下での事前検束に繋がる。

甘粕は、朴烈が大杉と接触し大陰謀を企てているとの情報をつかんだという。
大杉事件の軍法会議での甘粕の陳述。
「大震災の後九月二日の夜中 摂政宮殿下が、潜かに宮城へ御這入りになったという噂が、盛に市民の耳朶を打ったことがありまするが、夫は大杉一派が朴某なる不逞鮮人を煽動して企てた某大逆事件に基因するものであるとの確信を得たのであります」

■甘粕に対する減刑嘆願運動:
早稲田の右翼学生グループの縦横倶楽部や各地の在郷軍人会を中心に全国に広がり、その署名請願者は65万人に達する。

■軍法会議が開かれ(10月8日~)凄惨な犯行が国民の目にさらけ出されるに従って、ジャーナリズム界では、大杉を悼む一方、甘粕を非難する声が高まる。
雑誌「改造」(大正12年11月号)は特集号「大杉栄追想」、「婦人公論」(同年11月・12月合併号)は特集記事「『甘粕と云ふ人間』批判」を組んで、甘粕に非難の集中砲火を浴びせる。

三宅雪嶺「火事場人殺し」
<甘粕が職を辞し、一私人として大杉を殺したならば、己の力の及ぶ限り国家の為めに尽さうとしたものと云ひ得ぬではない。憲兵大尉の職権を以て法律に依らず逮捕して極刑に処するに至つては、単に職権を濫用するのみでなく、憲兵の信用を損じ、併せて広く軍隊に及ぶを遺憾とせねばならぬ。
甘粕は初めから一身を投げ出して居るかどうか、独断専行した処、責任を負うてゐるにしても、死骸を知れぬやうに隠さうとしたのは何の為めか。知れなければ其のまゝ問題にならぬとしたのでないか。子供を殺したのも世間に漏れるのを怖れたのでないか。
その為す処、只管(ひたすら)秘密を保たうとするのであって、秘密結社の陰険手段の最も著しいものに属せぬか。フリーメーゾンに有害の人を Cause to disappear せしむるといふ文句がある。即ち或る手段で行方不明にする事を意味する。
甘粕の行為は、憲兵大尉として、秘密結社の事を敢てするに外ならぬ>

宗教家の高島米峰は、三宅以上に手厳しく甘粕を断罪。
<甘粕大尉の行為は明に、国家の大権を干犯し、陸軍の重法を無視したもので、無政府主義を恐れて居た甘粕大尉自身が、却て無政府主義を実行した事になるのである>

■第1回軍法会議(大正12年10月8日、青山の第1師団司令部)
午前8時30分、開廷。
被告席に軍服姿の甘粕と、共犯とされた東京憲兵隊本部附曹長・森慶治郎。
法務官のうしろの特別傍聴席には、第1師団長石光真臣中将と幕僚、一般傍聴席には、甘粕兄弟や陸士24期の同期生たち。

判士長岩倉正雄(陸軍歩兵大佐)が最初に甘粕を呼ぶ。
原籍、住所、氏名、年齢、叙勲、賞罰など型通りの人定質問、検察官山田喬三郎(陸軍法務官)による公訴事実の朗読、続いて判士小川關治郎(陸軍法務官)の実質審理に移る。

軍法会議の公判記録は散逸しているが、この裁判を傍聴しその様子を書き留めた記録『問題の人甘粕正彦』(山根倬三・小西書店、大正13年出版)された記録がある。
この軍法会議ではは、甘粕は、大杉一家虐殺は自分一己の考えから出たことであり、上からの命令は一切なかったという点で首尾一貫している。
しかし、昭和51(1976)年に発見された大杉一家の「死因鑑定書」は、この甘粕の供述をことごとく覆す結果となった。

この軍法会議で最も見るべきは、殉教者意識の虜になったとしか思えない甘粕の”名演技”ぶりである。

■判士(陸軍法務官)小川關治郎に社会主義者に対する一般的感想を尋ねられた甘粕の陳述
「思想問題については、以前ちょっと研究したことがあります。この頃は特別研究しておりませんが、今日の思想界がほとんど混乱状態に陥り、刻一刻と危機に瀕していることはいまさら申しあげるまでなきことで、国家のため憂慮にたえません。かかる危機的状況を何とかして一日も早く救い、ひいては社会の改善をはかりたい希望をもっておりました。
特にわが帝国は天祐とでも申しましょうか、西洋各国が五、六百年の間に繰り返し繰り返しやっと文明をかたちづくったのに対し、わずか五、六十年の間に建設することができました。この光輝ある帝国に不純なる思想を芽生えさせようとするのは、天と倶に許さざるところであります。
社会主義の根本は、人間が肉体を離れて霊にならなければできないことですが、よしその根本は間違っていても聞くべきものもあります。しかし、無政府主義にいたっては、国家に対し、国体を蠧毒(とどく)し、大和民族の帰結を害うことの甚だしきものであります。
かかる危険思想は、国家を憂える者が決然と起って排斥すると同時に、建国の大本を無視する獅子身中の虫は、天に代わって制裁を加えなければなりません」

■判士と甘粕の応酬
- 震災後の社会主義者の言動について、何か不穏という確証でも得たのか。
「震災後、放火犯人を逮捕して調べたところ、その背後に社会主義者がいて、朝鮮人と連絡をとり、ことを起こそうとしていることを知りました。伊藤野枝が爆弾を懐に、ひそかに活動しているということも聞きました」

- それらの者に対して、いかなる方法をとろうと思っていたのか。
「震災後、人心は非常に動揺しました。私は万一のことを考えて、寝食を忘れてその警戒にあたりました。それというのも、国家が一部人心の動揺のため、危殆に瀕しはしないかと痛感したからであります。しかるに警視庁は、社会主義者の末端は片っ端から検束しているのに、大杉栄のごとき巨頭はそのまま放任していた。これは非常に遺憾なことだと思いました」

- 大杉栄の行動に関して何か確証でも握ったのか。
「一日以来、野枝と一緒に行動していると聞きました」

- 放火犯人や朝鮮人を使嗾した主義者は誰だということだったか。
「ハッキリとはわかりませんが、大杉もむろんその一人だと思いました。特に大杉は検束されていませんでしたから、かかる運動をしているのは大杉らよりほかにないだろうと思ったのです」

ー 大杉の所在を捜索しようと思ったのはいつ頃か。
「九月上旬のことです」

- 所在を知ってどうしようと思ったか。
「捕らえたら殺してやろうと最初から考えていました」
(満員の傍聴席から驚きの声)

- いかなる方法で大杉をヤッツケようとしたのか。
「九月十五日の夕方、森曹長を従え私服で淀橋署に行きますと、大杉は子どもを連れて戸山ケ原を散歩していると聞きましたので、戸山ケ原に大杉がいたら、手で絞殺しよう、万一のときは射殺しようと思い、拳銃を持って行く覚悟を決めました。しかし、大杉は自宅にいることがわかり、その日は目的を果たさず、空しく帰りました」



つづく




【調査報道】日本外交、3000億ドルのシリア復興特需に屈す(ニューズウィーク日本版);<アサド政権の勝機を見越して、インフラ再建の商機が高まるシリア。市場をにらむ日本企業、期待を膨らませる永田町、忖度する霞が関――取材で見えてきたのは、復興特需に翻弄される価値観なき日本外交の姿だった。ニューズウィーク日本版「対中国の『切り札』 インドの虚像」特集号(2017年9月26日号)掲載>

「北朝鮮と断交を」河野太郎外相、世界に要求 背景には、安倍首相の国連総会での「必要なのは行動」演説か。 / 河野外相は、米コロンビア大学で講演し、北朝鮮の核・ミサイル開発を「これまでにない重大かつ差し迫った脅威」とし、北朝鮮と国交のある160以上の国々に対して断交呼びかけ。 .....





【国会から逃げて逃げて逃げまくる首相、安倍晋三。ちゃんと横綱相撲とれよ】臨時国会:北朝鮮非難決議見送りへ 与党、不信任案を警戒 - 毎日新聞 / アメリカでさんざん北朝鮮とはもはや対話は終わったと吠えておいて、帰国したら野党が怖くなり非難決議すら投げ捨てるという逃げ恥.....内閣不信任案が怖いから北朝鮮非難決議上げられないとか、どんだけびびってんねん.....




トランプの国連演説。「ロケットマン」と「完全に破壊」は演説原稿になかった。.....マクマスターたちに再三、金正恩をあだ名で呼ぶな、挑発するな、嘲笑するなって言われてても、あのような演説に。子供の頃からの行動様式というか、本人なりの成功の方程式と思ってるんだろうな。..... / 「アチャー! 言いやがった!」というような感じのケリー大統領首席補佐官(画像)    







米公共放送が沖縄特集 「基地撤退、住民の願い」 — 琉球新報 / (YouTube)On Okinawa, many locals want U.S. troops to leave (「沖縄では、多くの人々が米軍の撤退を望んでいる」)


そぼふる雨、新橋の夜は更けて。2017-09-22

9月22日、くもりのち雨。
久しぶりに新橋で高校からの友人と呑んだ。

この日はあいにくの雨。
昼間は竹橋の近代美術館で4時間ほど浸りきった。
東山魁夷がずら~りと、眼福な半日だった。
(MOMAT所蔵の東山作品17点が全て展示されている)

それに、写真OKなのが嬉しい。

晴れていれば日比谷公園のテニスコート脇の彼岸花を撮りたいと思ってたけど、雨止まず、これはギブアップ。
日比谷公園近くのスタバで1時間ほど携帯を充電しながら、インスタで遊んで、いざ新橋へ出陣した。

そぼふる雨、新橋。




2017年9月22日金曜日

疑問に答えず「今なら勝てる」打算だけ 前川喜平氏(毎日新聞);「消費税の引き上げ分で教育無償化というのは思いつきとしか思えない。幼稚園教諭・保育士の処遇や配置の改善、資質の向上、高等教育の質的充実など、もっとやるべきことがある。」 「その財源は消費税に限らない。特定扶養控除や教育資金一括贈与制度などの金持ち優遇税制を廃止したり、所得税や相続税の累進性を高めたりすることを考えるべきだ。」 


韓国政府、北に9億円規模の人道支援を決定 / 日米首脳“人道支援”で文大統領に強い難色 ; 会談で日米韓3か国首脳は、北朝鮮への対応をめぐって結束を強調したが、韓国政府が決めた人道支援については「今がその時なのか」と文大統領に詰め寄る場面もあったという。 ← 飢えた人々を救うことにも反対と...?



 アメリカ・ニューヨークを訪れている安倍首相は、トランプ大統領、韓国の文在寅大統領と3人で会談した。日米両首脳は文大統領に対して、北朝鮮への人道支援に強い難色を示した。

 会談で日米韓3か国首脳は、北朝鮮への対応をめぐって結束を強調したが、韓国政府が決めた人道支援については「今がその時なのか」と文大統領に詰め寄る場面もあったという。

 (略)

 首相同行筋は「トランプ大統領は相当、怒っていた」「これで人道支援は当面、実施されないのではないか」と語っている。蜜月関係の日米首脳と文大統領との距離感が露呈した形。

 (略)





2017年9月21日木曜日

鎌倉 路傍の彼岸花(白花)とススキ 八幡宮東側の彼岸花(赤花)とハギ 2017-09-21

9月21日、快晴。
予報通り、今年最後の真夏日(30℃越え)だった。
今日の鎌倉散歩は鶴岡八幡宮~宝戒寺。

八幡宮東側の彼岸花の群生がもう終盤を迎えていた。
宝戒寺の白ハギはまだ咲き始めだったが、彼岸花(白花)はもう殆ど終りだった。

下は、八幡宮とその周辺。

▼街の路傍の彼岸花(白花)

▼八幡宮東側の彼岸花とハギ



▼八幡宮境内

▼路傍のススキ

鎌倉 英勝寺の彼岸花(曼珠沙華)7~8分咲き 2017-09-18







「いまなら選挙に勝てそうだから解散」は許される? さすがにダメ、と憲法学者が語る理由 (BuzzFeed)  ; 首相にフリーハンドの解散権はない、で一致 / 国民に信を問うほど、国会で議論しているのか?

大正12年(1923)9月16日 大杉栄・伊藤野枝・甥橘宗一らの虐殺(その2) 20日、福田雅太郎関東戒厳司令官更迭などの処分 24日、軍法会議検察官談話 25日、遺体引取り   

9月19日夜11時過ぎ、内田魯庵のもとに友人の読売新聞記者安成二郎がやって来て、「大杉が行方不明になりました。どこの警察に問い合わせても検挙されていません。明日、戒厳司令官はじめ陸軍の重職が更迭され、一大尉一特務曹長が軍法会議に廻される異例の人事異動が発表されますが、その理由はまだ説明されていません。どうやら不法殺人らしいのですが、それがどうも大杉らしいのです」と、言う。

9月20日、福田雅太郎関東戒厳司令官が更迭され、後任に山梨半造が任命される。また、憲兵司令官小泉五一少将・東京憲兵隊長小山介蔵憲兵大佐が停職処分となり、東京憲兵隊渋谷分隊長兼麹町分隊長甘粕正彦憲兵大尉が、違法行為の為軍法会議に付される。

事実はひた隠しにされるが、大杉を尾行していた淀橋署の刑事からの報告で、警察側は大杉らの身柄について憲兵隊に問い合わせるが、憲兵隊は不知の返事。
その後、両者間で曲折があり、大杉不明の報告は首相にまで達す。
首相から調査を命じられた陸軍大臣の下命により、憲兵隊も犯行を隠すことはできなくなる。

この日夕方、「時事新報」「読売新聞」「大阪朝日新聞」が大杉殺害事件をスクープして号外を印刷するが、直ちに発売禁止、差押えとなる。

9月20日、「大阪朝日新聞」は2回の号外を打つ。
1回目は麹町憲兵分隊長甘粕正彦大尉が不法行為のため軍法会議に付せられ審理中という内容。
2回目は大杉栄殺害をはっきり報じる(殺害方法、殺害場所、単独犯行など間違いもある)。
「甘粕憲兵分隊長留置中の大杉栄を刺殺す。軍法会議に廻された内容。突然関東戒厳司令官以下憲兵司令官、憲兵隊長の大更迭を見るに至った憲兵分隊長甘粕大尉の不法行為内容について本社の探査するところによれば右は十六日無政府主義者大杉栄を逮捕したるに拘はらず赤坂憲兵隊留置所に於て同大尉が独断にて刺殺したるためであると(東京電話)」
9月21日付け「報知新聞」。
「廿日午後一時突然左の如く戒厳司令官が更迭された
補関東戒厳司令官    陸軍大将 山梨半造
免本職 関東戒厳司令官陸軍大将 福田雅太郎
憲兵司令官更迭 別項戒厳司令官更迭とゝもに左の通り憲兵司令官の更迭も発表された。
停職被仰付    憲兵司令官陸軍少将    小泉六一
補憲兵司令官   歩兵第一旅団長陸軍少将  柴山重一
停職被仰付    東京憲兵隊長陸軍憲兵大佐 小山介蔵
補東京憲兵隊長 憲兵司令部附陸軍憲兵大佐 三宅篤夫」

■この間の事情について
時事新報社会部記者吉井顥存「大杉殺し事件の曝露されるまで」(「婦人公論」大正12年11・12月合併号)。
9月20日、福田戒厳司令官以下3人の更迭が発表され、甘粕憲兵大尉が軍法会議に廻されたらしいとの情報が入り、時事新報は社会部記者を憲兵隊本部に差し向ける。
記者が、新任の三宅憲兵隊長に面会を求めると、副官が出てきて知らぬ存ぜぬの一点張り。埒が明かないので、震災で行方不明の友人が心配で駆けつけたという名目で、憲兵隊の周りをうろうろしていると、顔見知りの憲兵が通りかかり、
「いよう、よく来ましたね。大杉事件ですか」
と、相手の方から口を割り、
「殺されてしまったよ。三人とも井戸の中に放り込まれてしまった」
「あとの二人は誰なんです」
「伊藤野枝と子どもですよ。井戸を見ますか。案内しますよ」
と言う。
それだけ聞けば十分なので、記者はすぐに編集局に帰り、号外用の原稿を書く。しかし、そこに、当局から、事件については一切報道禁止との命令が届く。
時事は、大杉殺害のみを書くなら構うまいと判断し、出来たばかりの号外を目黒や渋谷など目ぼしいところに張り付けた。
ところが、その号外も9月7日公布・即日施行の緊急勅令「治安維持ノ為ニスル罰則ニ関スル件」に抵触するとの理由で、発行禁止となる。
時事は、当局からの発禁命令が出る直前、大杉殺害だけでなく、犯人の甘粕大尉が軍法会議に廻されたとの情報を京阪神・九州方面に電話で送っていた。
これが、「大阪朝日」号外に繋がる。
9月24日、第1師団軍法会議の予審が終了し、事件の概要が発表される。軍法会議検察官談話として、「甘粕憲兵大尉は本月十六日夜大杉栄ほか二名の者を某所に同行し、これを死に致したり」と発表。

9月25日付け「時事新報」
(見出し)
「大杉栄氏外二名 甘粕大尉に殺さる 十六日夜某所に於て 怪事件昨日発表さる」
(記事)
「福田関東戒厳司令官を交(ママ)迭せしめ、小泉憲兵隊司令官及び小山東京憲兵隊長の停職を命ぜられたる、甘粕憲兵大尉に関する奇怪な事件は、昨日第一師団軍法会議転於て、予審決定と同時に、左の如く発表された。
陸軍憲兵大尉甘粕正彦に左の犯罪あることを聞知し捜査、予審を終り、本日公訴を提起したり。甘粕憲兵大尉は本月十六日夜、大杉栄外二名の者を某所(*麹町憲兵分隊)に同行し之を死に致したり。
右犯行の動機は、甘粕大尉が平素より社会主義者の行動を国家に有害なりと思惟しありたる折柄、今回の大震災に際し無政府主義者の巨頭たる大杉栄等が、震災後秩序未だ整はざるに乗じ如何なる不逞行為に出づるやも計り難きを憂ひ、自ら国家の蠹毒(トドク)を艾除(ガイジョ)せんとしたるに在るものゝ如し・・・」(「時事新報」大正12年9月25日)
9月25日付け「報知新聞」
(見出し)
「甘粕大尉の収監は大杉栄等惨殺のため 兇行は十六日の夜 昨日公判に移さる」
(記事)
「二十一日小泉憲兵司令官及小山東京憲兵隊長が突如更迭された事は少なからず世人を驚かし流言紛々として起ってゐたが、右は無政府主義者の頭目大杉栄及○○○○○○○○○○○○○○の三名を絞殺した事件の為であった。事件の内容は廿四日陸軍省から左の通り発表された」、
続いて、「甘粕憲兵大尉は本月十六日夜大杉栄外二名の者を某所に同行し、これを死に致したり。右犯行の動機は甘粕大尉が平素より社会主義者の行動を国家に有害なりと思惟しありたる」ためとする軍法会議の検察官談話を紹介。
殺された大杉を「幼年学校から革命児へ」と詳しく紹介し、伊藤野枝については、「肉的にも魅力を持った野枝女史」と好色な関心を向け、また、遺児の写真を掲載。
甘粕の上司の岩佐禄郎憲兵司令部副官の談話(岩佐は大正14年2月、甘粕の妹伊勢子を養女にし、そこから彼女を部下の憲兵中尉に嫁に出す)。部下の甘粕に好意的な理解を示す談話。
「甘粕大尉は模範的な青年将校で、一点の非難すべきところのない人格者である。新しい思想に対しても相当の理解があったが、まだ未完成のところがあったのだろう。しかし、アナーキストに対してはどこまでも妥協するつもりはなく、いつかは大鉄槌を加える決心をしていたというから、むしろ満足しているかもしれない。それにしても陸軍は本当に惜しい青年を失った」

同日付け「東京朝日新聞」も甘粕に対する好意的な論評を掲載。
「甘粕大尉は極めて謹厳な精神家で、酒も飲まず道楽も持たず最近迄令弟と令妹の教育の為め総てを捧げ、令弟は東大法学部を出たが、令妹はまだ未婚である。甘粕大尉は「妹を嫁つける迄は」と今日迄独身生活を続けて来た。
平常は殆ど無口で読書を好み、「憲兵は人事を司どる職務だから」と云って広く新しい方面の書も読んでゐた。又部下に対しては全く慈父の子供に対する如き暖かみを以て接して居た。
令弟と令妹の教育の為めに殆ど余祐の無い生活の中から、随分部下の為め思ひ切った援助を為した事もあった位で、部下も同大尉を心から敬愛し、今度大尉が大杉栄を殺害した廉に依り軍法会議に廻された事に就き非常に同情を表し、身代りにさへ切望して居る部下が尠くないと伝へられて居る」

9月25日、安成二郎・服部浜次・大杉勇が衛戍病院で大杉の遺体引取る。
3人の遺体は犯行が露見してから、20日、憲兵司令部(麹町区大手町1丁目1番地、現・千代田区丸の内1丁目1番地)裏手の井戸から引上げられる。
27日荼毘に付し、28日通夜。葬儀は12月16日。

この日(25日)も、いつものように大杉の近くに住む内田魯庵の家に大杉と野枝の間にできた最初の子、魔子が遊びに来た。魯庵は自分の子どもたちに「魔子ちゃんが来ても魔子ちゃんのパパさんのことをいってはいけないよ」と注意していたが、魔子の方から「パパもママも死んじゃったの。叔父さんとお祖父さんがパパとママのお迎えに行ったから今日は自動車で帰ってくるの」と無邪気にいった。魯庵はそのけなげさに不憫を感じ胸をしめつけられた。
*
*
つづく

ニュース23(動画) 星浩「今回の冒頭解散は憲法違反。」 「憲法論議するならいまの憲法を守ってからにしてもらいたい。」     

冒頭解散めぐり、安倍首相に自民党内から苦言 石破茂氏「何のための解散か明確にすべき」; 安倍首相は「真摯に説明責任を果たす」と言っていたが… / 消費税の使途を公約化することも、「党内民主主義をすっ飛ばして国民に問うべきではない」と.....


 

【これ、やっぱペテンでしょ → 】 消費税8%に上げたときの国民との約束がこれ。平気でこれを破った政権が、同じ約束で10%に上げることを選挙の目玉にするらしい。 / 改憲でもこれ ↓



▼おまけにこれ



【どうなってんや!維新!】基準地価:名古屋が全国2位 商業地最高価格、大阪市抜く - 毎日新聞

9.19を忘れない/言わねばならないこと:100 山田洋次さん(映画監督) ・主張する自由 失うな ・反抗が若者の特権、従順すぎる(東京新聞) ; 山田洋次さん「特定秘密保護法という不気味な法律が国会を通ろうとしたとき、僕らの学生時代だったら、日本中の学生が立ち上がって、大デモンストレーションが起きたでしょうね」「なぜ、こんなにおとなしく、聞き分けがよくなってしまったのだろう」


北朝鮮への国連決議に背いたのは安倍首相でもある(まさのあつこ)  / 国連演説でも北朝鮮危機を煽りまくった安倍首相に、NYタイムズコメント欄でも批判殺到! 戦争ゲームに興じる子どもみたい / 国連総会で「トランプのアメリカ」と運命共同体になることを明言した安倍演説は、「日本を米国と同列の攻撃目標にしなければならない」という口実を、改めて北朝鮮に与えた、と →深呼吸:権力者の精神性=柳田邦男 - 毎日新 / 【いつ対話した? → 】首相「対話は無に帰した」 国連演説、8割は北朝鮮問題 / 北朝鮮問題「必要なのは対話でない」 安倍首相が国連演説 / Japan's Abe says time for talk is over on North Korea / (背後から映さないでね。バレるから)それにしても人いない。場内はガラガラ。スピーチの途中で退室する人も。とても寂しい演説。    


-----------------------------------------


------------------------------------

------------------------------------















---------------------------------------






2017年9月20日水曜日

大正12年(1923)9月16日 大杉栄・伊藤野枝・甥橘宗一ら麹町憲兵隊で虐殺される(犯人とされた憲兵大尉甘粕正彦、懲役10年、3年で仮出獄)。 19日、検察官取り調べ。22項目の甘粕供述。

【増補改定版】 大正12年(1923)9月11日~12日 中国人社会運動家王希天が軍隊に殺害される(王希天、70年の「行方不明」) ソ連の震災救援船「レーニン」号が横浜入港するも退去命じられる スペイン・バルセロナの駐屯地で反乱、軍事独裁政府樹立(~1930)
より続く


大正12年(1923)9月16
・大杉栄・伊藤野枝(28)・甥橘宗一ら虐殺。
憲兵大尉甘粕正彦懲役10年、3年で仮出獄。

憲兵大尉甘粕正彦によって拉致。その日のうちに憲兵隊構内で扼殺。遺体は、畳表で巻かれ古井戸に投げ捨てられる。
1976年(53年後)に発見された死因鑑定書によれば、伊藤・大杉ともに肋骨が何本も骨折、死亡前の激しい暴行が発覚(甘粕らは軍法会議法廷で、被告らは被害者が「苦しまずに死んだ」と陳述)
その後の研究によれば、虐殺命令を憲兵隊上層部(憲兵司令官小泉六一)ないし陸軍上層部(戒厳司令官福田雅太郎大将)が出したと推認。

甘粕事件の発覚は、橘宗一が米国国籍を持っていたため、アメリカ大使館の抗議を受けて狼狽した政府(首相山本権兵衛)の閣議(19日)で問題になったから。
19日朝、布施辰治は、村木源次郎より大杉らの行方不明を聞き警視庁で湯浅倉兵総監を問詰める。
24日、公表。

大杉栄(38)、伊藤野枝(28)。
残された子ら。長女魔子(6)、3女エマ(2歳8ヶ月)、4女ルイズ(1歳8ヶ月)、長男ネストル(2ヶ月弱)。尚、2女エマは、大杉の妹牧野田松枝の養子として大連で育てられている。

以下
『甘粕正彦 乱心の曠野』(佐野眞一)によりこの虐殺事件を見てゆく。

大正12(1953)年9月16日午前9時過ぎ、大杉栄と同棲中の伊藤野枝は、豊多摩郡淀橋町字柏木371番地(現、新宿区北新宿1丁目16番地)の自宅を出た。すぐ隣に住む文芸評論家内田魯庵の妻がそれを見かける。魯庵の家に遊びに来ていた長女の魔子(6歳)によると夫妻は鶴見に行くという。
そして、その日以来、大杉夫妻は姿を見せなくなった。

地震後の混乱に際して、朝鮮人暴動の背後には社会主義者の煽動があるなどの流言が流されており、また検束された社会主義者も出てきている状況なので、大杉の友人はそれとなく注意したが、迫害に慣れている大杉は、「俺を捕まえるには一個師団の兵隊がいる」と大言壮語して一笑に付していた、という。
しかし、実際にはこの時点でまだ拘束を免れていた無政府主義者は大杉だけであった。

大杉は、前年末にフランスに国外脱出し、パリ近郊のメーデー集会で逮捕されラ・サンテ監獄に収監後、国外追放となり、この年7月に、凱旋将軍のように帰朝したばかり。
警察も軍も、日増しに盛名をはせている大杉に対しては、以前にも増して激しい憎悪をつのらせている。

大杉夫妻は、焼け野原のなかを鶴見まで行き、大杉の弟・勇の避難先で甥の橘宗一(6歳、米国籍、大杉の妹あやめが米国で結婚して生んだ子供)を預かり帰路についた。
しかし、その後の3人の行方はそこで途絶えた。

それから2~3日後には、魯庵は、大杉は検挙され留置所に入れられたまま火事で焼け死んだというような不穏な噂を耳にするようになる。

9月14日付け「東京朝日新聞」のコラム「青鉛筆」。
「大杉栄は殺された、社会主義者はやられたと云ふ様な流言が大分行渡って居たが、警視庁に真否を尋ねて見ると、大杉オン大はじめ御連中は極めて安全に私服諸君の保護を受けて自宅に縮こまってゐるさうだ」

9月19日、検察官取り調べ(甘粕の態度はのちの軍法会議と同じ)

■陸軍法務官山田喬三郎による検察官調書
・被告人 陸軍憲兵大尉 甘粕正彦(当年三十三歳 本籍 山形県米沢市門東町上ノ町六九五番地 住所 東京府豊多摩郡渋谷町憲兵分隊長官舎)
・罪名 殺人
・起訴理由 被告人は平素社会主義者の主張に嫌厭たらざるものあり。就中大杉栄は無政府主義者の巨頭なるを以て震災の為め混乱せる場合に軍隊撤退後如何なる不逞行為に出つるやも知れざれば、此際に於て殺害するを国家の為め有利なりと思惟し、麹町憲兵分隊長を兼務せるを幸として其居所を内偵し居りたる所、大正十二年九月十五日府下柏木に居住せること判明したるに依り、翌十六日、同地より大杉栄、伊藤野枝、及当年七才位の男児一名を麹町憲兵分隊に同行し、同日午後八時三十分頃より同九時三十分頃迄での間に同分隊構内建物空室に於て右栄、野枝及男児を順次に絞殺したるものなり。
右は予審に附するを相当なりと思料候也

■甘粕の供述
1.私は本年八月、陸軍の人事大異動以来、渋谷憲兵分隊に勤務しておりましたが、九月一日、同分隊の仕事に携わっているとき震災が起こり、同日から麹町憲兵分隊長として昨日十八日まで勤務しておりました。
(事実は、甘粕が千葉県市川の憲兵分隊長から渋谷憲兵分隊長に栄転したのは大正11年1月。翌大正12年8月6日の陸軍大異動で渋谷憲兵分隊長の身分のまま麹町憲兵分隊長代理との兼務を命じられ、9月1日に正式に渋谷憲兵分隊長兼麹町憲兵分隊長となった)

2.震災後、警視庁始め各警察署に於いて社会主義者の検束につとめており、麹町憲兵分隊に於いても検束に従事していました。しかし、主義者の巨頭の大杉栄は警視庁管内でも検束を受けていません。軍隊の警備中は主義者は何らの行動も起こしませんが、軍隊の撤退後はいかなる行動を起こすかわかりません。とりわけ、大杉栄を検束しないのは遺憾に思い、今月十日頃より捜索をしておりました。しかし、大杉は淀橋方面にいるというだけで、住所をつきとめることができずにいました。
十五日になって、淀橋警察署の特別高等係が案内してくれて、柏木三百八十何番地かに伊藤野枝と一緒に暮らしていることがわかりました。
(大杉夫婦が住んでいたのは柏木三七一番地。
ここでは、警察が大杉のアジトを突きとめる手引きをしていたことが注目される。大杉一家殺害には警察が関与していたのか、軍の単独犯行だったのか。この問題は軍法会議でも取りあげられた。真相究明までにはいたらなかったが、あとあとまで尾を引いた。そもそも大杉事件が露呈するきっかけは、軍と警察の反目にあった。そしてその背景には、内務省と陸軍省のドロドロした暗闘劇が絡んでいた。)

3.淀橋署の特別高等係に大杉の居所を案内してもらったのは、麹町憲兵分隊と同じ建物にある東京憲兵隊本部附憲兵曹長の森慶治郎が、大杉栄の居所を捜索するため十五日の午前中に淀橋署に行き、松元という同署の特別係長から大杉についてこんな相談をされたからです。
その相談というのは、森曹長の話では、淀橋署では大杉の居所はわかっているが、警察ではヤッツケることができないので、憲兵の方でヤッツケてくれないかという話だったそうです。
淀橋署の署長も公然とは言えないが、ヤッツケてもらいたい意思であると話していたとのことでした。
帰隊した森曹長からそれを聞いた私は、森曹長と鴨志田安五郎、本多重雄の両憲兵上等兵を連れて麹町憲兵分隊を出て、午後六時頃、淀橋署に行きました。そして、私と森曹長が淀橋署の案内で大杉栄の家に行きました。いま申し上げたヤッツケてくれというのは、殺してくれという意味です。
(鴨志田、本多の両憲兵上等兵は、森曹長と同じ東京憲兵隊本部に所属し、後述する東京憲兵隊本部の平井利一伍長と前後して第1回軍法会議の終了後自首したため、甘粕、森とともに大杉事件の被告となった。)

4.私と森曹長は淀橋署の案内で大杉栄の居所付近まで行きましたが、そのときは大杉栄を尾行している淀橋署の巡査が見当たらなかったため、大杉栄の所在を確認することはできませんでした。その日は、鴨志田上等兵をその場に残して帰りました。分隊に帰ると、大杉の居所まで案内してくれた淀橋署の者から、電報で大杉を浦和あたりまで連れだし、ヤッツケたらどうかと言ってきましたが、それは難しかろうと思ってやめ、翌十六日あらためて大杉栄の居所に行く約束をしました。

5.翌日は午後二時半頃、森曹長、本多上等兵、平井伍長と一緒に淀橋署に行きました。昨日案内してくれた者と私服の巡査が、私らを大杉の居所まで連れて行ってくれましたが、大杉は不在でした。隣の酒屋で聞くと、南の方に行ったとのことなので、大杉の居所から約二丁離れた二つの街道に手分けして張り込んでおりました。
淀橋署の者に調べてもらうと、大杉は鶴見方面に出かけ、午後五時半頃には帰宅するはずだとのことでした。また、淀橋署の話で、大杉栄が白の背広を着用して中折帽をかぶり、伊藤野枝も洋装だということがわかりました。

6.張り込んでいたところ、午後五時半頃、淀橋署の方面から大杉栄、伊藤野枝が七、八歳の男児を連れて帰ってきました。野枝は私が張り込んでいた家の前の果物屋に入り、梨を買っていました。大杉と子どもは店の外で待っていました。
野枝が買い物を終わって店の外に出てきたとき、森曹長が憲兵隊に同行せよといいました。大杉は一度帰宅させてくれといいましたが、私と森曹長がすぐに来てくれといって、淀橋署まで連行し、同署から自動車に乗せ、三人とも麹町憲兵分隊に連れて帰りました。午後六時半頃のことでした。
(この男児は、大杉の妹あやめの長男の橘宗一。この日、大杉と野枝は、鶴見に避難している大杉の弟の勇のところに震災見舞いに行った。そこに預けられていたのが宗一で、宗一は東京の火事の焼け跡が見たいというので、一緒に連れて帰宅した。)

8.麹町憲兵分隊に連れて帰り、使用していなかった階上の東京憲兵隊本部隊長室に三人を入れて夕食をとらせました。そして午後八時頃、やはり使っていなかった憲兵司令部の応接室に、森曹長が大杉栄だけを連れて行きました。その部屋で森曹長が大杉を取り調べているとき、私が大杉の腰かけている後方から部屋に入り、すぐに右手腕を大杉の咽喉にあて、左手首を右手掌に握らせて後ろに引き倒しました。
大杉は椅子ごと後方に倒れましたので、右膝頭を大杉の背骨にあて、柔道の絞め手で絞殺いたしました。大杉は両手をあげて非常に苦しみ、約十分間くらいで絶命いたしました。そのあと、携えていた細引きを首に巻いてその場に倒しておきました。大杉は如何なるわけか、絞殺するとき、少しも声をあげませんでした。

9.森曹長には同人が調べているときに私が絞殺するということを示してありました。森曹長は、私が絞殺をしはじめるときにはボンヤリして椅子に腰かけていましたが、ほとんど絶命するようになって足をバタバタバタバタいわせていましたので、私が命じてその足を捕えさせたと思います。

10.それから午後九時十五分頃、隊長室に行きますと、伊藤野枝が机に右肘を乗せ、入口の方を背にして椅子に腰かけておりました。私は室内を歩きながら、戒厳令などという馬鹿なことをやったと思っているだろう、と聞いたところ、笑って答えませんでした。兵隊などというものは馬鹿に見えるだろう、と重ねて尋ねますと、この頃は兵隊さんでなければならぬようにいうではありませんか、という答えが返ってきました。
そこで私は、自分らは兵隊で警察官だから、君たちから見れば一番イヤなものだろう、君たちは混乱がさらに続くことを望んでいるのだろう、と尋ねました。すると彼女は、あなたたちとは考え方が違うから仕方がありませんね、と笑いながら答えました。
それを聞いて私は、どうせ君はこんな状況を原稿の材料にするのだろうというと、もう本屋から二、三注文がきている、と笑いながら答えました。そんな会話をしているうち、私は彼女の右横に廻り、大杉に対して行ったのと同じ方法で絞殺いたしました。
伊藤野枝の場合、位置が悪かったため大杉より一層困難で、野枝は二、三回ウーウーという声を出し、私の左手首のところを掻きむしりましたが、同人も約十分くらいで絶命しました。そして携えていた細引きを首に巻き、その場に倒しておきました。

11.私が伊藤野枝と会話しているとき森曹長も部屋に来ており、一、二伊藤野枝と会話していたように記憶しています。私が伊藤野枝を絞殺したときにも森曹長は傍らにいましたが、何も手伝いはさせませんでした。

12.子どもは淀橋警察署から自動車で麹町憲兵分隊に来る途中から、私になつき、分隊に来てからも、付きまとっていました。分隊で誰か引き取って養育してやる者はいないか、と冗談のように言ったほどです。子どもは伊藤野枝を絞殺する前に私のところに来ましたから、隊長室の隣の部屋に入れて戸を閉めておきました。
子どもは隣室で騒いでおりました。私は伊藤野枝を絞殺すると、すぐ隣室に行き、手で咽喉をしめ、その後細引きを首に巻きつけておきました。子どもは絞殺するとき声をあげませんでした。
(この供述には、伊藤野枝との会話のようなリアリティーがほとんど感じられない。宗一の殺害に関しては軍法会議でも大きな争点になった。)

13.大杉栄、伊藤野枝を私が絞殺したときには森曹長が傍らにおり、大杉のときは私の命令で一時足を捕まえさせましたが、部屋には森曹長以外には誰もおりませんでした。

14.大杉栄、伊藤野枝及び子どもの三死体は、午後十時半頃、森曹長、鴨志田、本多、平井の三上等兵に手伝わせて、憲兵隊の火薬庫のそばにある井戸の中に菰に包み、麻縄で縛って投げ込みました。
私は死体を外に運び、わからぬように処置しようと思いましたが、森曹長以下が死体を運び出すことを嫌っていたのと、後日発覚のおそれがあると思い、構内の井戸に投入することにしたのです。

15.死休を投げ込んだ古井戸は全然使用したことがないもので、震災で倒壊した火薬庫の煉瓦で蓋がされていましたので、それを取り除いて投入しました。その上から煉瓦を多数投入して埋めました。翌日人夫が来ていましたので、その人夫に命じて、馬糞や塵芥を投げ入れて井戸を完全に埋めてしまいました。

16.三つの死体とも裸で菰にくるみました。これは、最初外に運び出そうと思っていたからです。

17.三名がそれぞれ身につけていたオペラバッグや帽子、靴下、下駄などは、翌十七日の夕方、築地方面に自動車で巡視に行った際、逓信省の焼け跡の石炭の燃えているなかに投入して焼却しました。

18.大杉栄の捜査検束は憲兵隊長にもまったく報告せず、絞殺することも私一己の考えでやりました。

20.大杉栄を殺害することは、淀橋署が大杉の居所案内に協力してくれたことから考えて、同署も内々で同意しているものだと思っておりました。
しかし、大杉らを殺害した翌日の十七日、森曹長が大杉の捜査協力のお礼を兼ねて淀橋署に行き、大杉らは昨夜帰宅させたのでもはや尾行の必要はないだろうといったところ、同署では大杉の件についてはまだ警視庁に報告していない、二、三日したら行方不明として報告するつもりだ、と言ったとのことでした。
また同日、大杉の件につき隊長の命令で淀橋署に行った本部附の杉田中尉の話によれば、同人が大杉栄方付近を聞き回ったところ、淀橋署は巡査を派遣して大杉栄方に異常はなかったかと隣家に問い合わせていたそうですから、あるいは大杉らの検束について同署は全然関係がないように装ったものかも知れません。

21.大杉らを検束した後、淀橋署で私らの行動を内偵していたかどうかはわかりませんが、大杉らの検束及び殺害について最初に言い出したのは淀橋署だったと思います。なぜなら、森曹長が最初に淀橋署に立ち寄った際、名刺を差し出し、同署ではそれを警視庁に報告したようだからです。私は最初から氏名を告げませんでしたので、警視庁の方でも私がやったことは知らなかったようです。
(淀橋署は憲兵隊によって大杉らが検束されたことを知りながら、偽装工作までやってロをぬぐったらしい。淀橋署からその報告を受けた警視庁でも責任が及ぶことを恐れてそれを握りつぶしたらしい。甘粕はここで、そう疑っている。
ここでも警察の関与問題がむしかえされ、軍と警察の間に暗闘があったことがほのめかされている。
しかし、甘粕は最後に「これはあくまで私一己の考えでやったことであります」と、もう一度述べている。)

22.私が大杉栄を殺害しょうと思ったのは、憲兵分隊長としての職権でやろうとしたのではなく、一個人として国家のため殺害する必要があると信じたからであります。ゆえにその殺害は、私自身が責任を受けるべきものと覚悟いたしております。
*
*
つづく

(動画)トランプ大統領が国連の総会、193カ国の首脳陣の前で「北朝鮮を完全に破壊する」と脅迫したシーン。日本語字幕付です。 / 「北朝鮮が地図上から消える」とも