2024年4月19日金曜日

辺野古に奄美の土砂 新基地への使用を検討 防衛省、「遺骨が交じった土砂を使うな」との批判を回避する狙いか / 「なぜ奄美から?」「絶対に反対だ」 住民ら、奄美からの土砂採掘による自然破壊を懸念 辺野古での使用検討に驚きと怒り(沖縄タイムス); 「なぜ、奄美から」「絶対に反対だ」。沖縄県名護市辺野古の新基地建設で、大浦湾側の埋め立てに鹿児島県・奄美大島で採掘した土砂の使用を政府が検討していることを受け、関係者からは驚きや怒りの声が上がった。   

 

「反社」並みですね → 自民派閥「偽装解散」指摘も 政治団体、事務所が存続 ; 自民党内で、「解消宣言」したはずの派閥が形式上、存続し続けています。 政治団体の届け出は取り下げられず、事務所も残ったままです。 各派は、政治資金の処理作業などを理由に挙げますが、与野党から「偽装解散だ」との声が出ています。— 時事ドットコム(時事通信ニュース)

大杉栄とその時代年表(105) 1894(明治27)年5月2日~16日 第1次甲午農民戦争始まる 黄土峴の戦いで農民軍勝利 第6議会開会(対外硬派が主導権掌握) 北村透谷(25)の自死

 

北村透谷

大杉栄とその時代年表(104) 1894(明治27)年4月1日~5月1日 対清強硬(戦争)論高まる 愛知県庁の工場労働者、「女工哀史」に描かれる状況よりも悲惨な状態 一葉、丸山福山町に転居 「水の上」時代  「奇蹟の十四箇月」(和田芳恵)の到来 より続く

1894(明治27)年

5月2日

「対韓の決心」(「自由新聞」)。政府が(対清戦争の)「最後の決心」を下すことを求める。

5月2日

青木駐英公使、外務省パーティ外務次官補訪問。パーティは、英は朝鮮に権益を求めない、ロシアの朝鮮占領・石炭貯蔵所獲得を恐れていると述べる。青木は、露仏の要求は絶対に容認しないとの保証を与える。この保証により、日英間の意志は疎通し条約改正交渉が本格的軌道にのる。

5月2日

高野房太郎(25)、米軍艦ヴァーモント号水兵(食堂勤務員・給仕)となる。契約期間ははじめ1年、すぐ3年に延長。

5月4日

朝鮮、第1次甲午農民戦争開始

全琫準の部隊、古阜・泰仁の武器庫を襲い、農民蜂起は本格的な戦争へ発展。農民軍は古阜郡内白山に陣(「湖南倡義所」)を構え、全琫準は最高指揮官に選ばれた。副官には、孫和中(孫化中)と金開南が就任。行動目標もは「ソウルに進撃し、特権貴族を滅ぼせ」。

この年2月の民乱は、郡守追放・不法徴収米奪還によって目的を達成し解散するが、政府の弾圧により再蜂起。民乱は局地的一揆から全国的農民戦争に転化、「八路(全国)同心」のスローガンを掲げ、宗教的一揆の限界を越え農民民主主義に立脚する新しい社会を展望して「保国安民」を主張。農民戦争勃発に対し、政府は鎮圧のため軍隊を送るが、待遇不良のため志気振わず、逃亡者続出し各地で敗北。

5月7日

上野恩賜公園内の料亭「桜雲台」で三宅(旧姓田邊)花圃(龍子)の新歌門桜園の披露歌会が開かれる。

花圃は、一葉の姿が会場に見えないので、萩の舎の土曜稽古に歌子の代講として後輩たちの稽古を預かっているものと思い、会場から手紙を寄せる。すでに一葉からこの歌会の兼題「庭の若竹」を詠んだ「しげるべきちひろのかげもまづみえておひ出にけりにはのわかたけ」の一首が龍子宛に届けられてあった。

5月8日

朝鮮、討伐軍、清国軍艦「平遠」で仁川より全州入り。

5月9日

久佐賀義孝より一葉へ、転居通知に対する返事。近くになったこともあり(久佐賀は真砂町、一葉は丸山福山町で同じ本郷区ですぐ近く)、明後日に訪ねるとのこと。

5月11日、久佐賀が来訪。一葉は久佐賀に〈百事顧問たるべき〉ことや〈会計〉(おそらく歌塾を開くことへの支援を要請した)のことなどを依頼。対して、久佐賀は一葉を飯田町富士見楼に誘う。

5月13日ころ、久佐賀より手紙。一葉を富士見楼に誘った事への謝罪を述べる。(一葉からの断り状は残されていない)

5月9日

ハンガリー、コロジヴァールで「覚書裁判」。~17日。少数民族「ルーマニア人民委員会」の君主批判文書裁判。

5月10日

与謝野鉄幹(21)「亡国の音(おん)、現代の非丈夫的和歌を罵る」(「二六新報」~18日)。徹底した宮中御歌所派批判。「二六新報」の国家主義もうかがえる。

5月11日

朝鮮、黄土峴(こうどけん)の戦い。農民軍、全羅道監司金文鉉率いる数千の軍を古阜の東方にある井邑郡黄土峴で撃破。討伐軍は李景鎬将軍含む750戦死。農民軍は、茂長に進出し、ここで倡義文(宣言)発表。

5月14日

朝鮮、東学党蜂起、忠清道・慶尚道に広がる。

5月15日

第6議会開会。対外硬派が主導権掌握

開会直前、対外硬6派懇親会。改進党、中国進歩党、国民政社、立憲革新党、財政革新会、旧大日本協会。中国進歩党は犬養毅を中心とする改進党の別働隊、国民政社は国民協会が改称したもの。対外硬6派の総議席数は130、懇親会では結束して政府に対外強硬策を迫ることが申し合わされる。第6議会では、従来の政府・吏党対民党に代わり、自由党と反政府の対外硬6派という図式ができる。

5月16日

北村透谷(25)、芝公園の自宅庭先で自死。17日キリスト教による葬儀。


■透谷の自死について

平田オリザが読む

硯友社を立ち上げた尾崎紅葉が華々しい活躍を始めた頃、一方で「文学とは何か?」「日本語で文学は可能か?」を真剣に悩む若い一群があった。今も名が残るところでは島崎藤村、上田敏など。そして、当時まだ二〇歳前後の彼らにとって、兄貴分にあたるのが北村透谷だった。

「内部生命論」など一連の著述で透谷は、人間には「内面」というものがあり、それを表現するのが文学の役割だと記した。これは当時、とても新しい感覚だった。透谷は旧来の勧善懲悪の戯作(げさく)や、当時勃興しつつあった大衆文学を鋭く批判し、そこに描かれているのは「恋愛」ではなく、単なる肉体の欲情に過ぎないと喝破した。今の私たちから見れば、それはそれで単純すぎる断罪のように思うが、一部の急進派の文学青年たちから、透谷は圧倒的な支持を集めた。

しかし透谷は、自らの文学論にかなうだけの作品は残せなかった。そして、新しい文学の概念だけを予言して、二五歳の若さで自死する。残された者たちの衝撃は大きかった。彼は日本文学史上最初の殉教者となった。実際には、おそらく透谷は、いまで言ううつ病などの精神障害だったと思われるが、当時の同輩たちはそうは考えなかった。

小説や詩を書けないという苦悩だけで人は死に至る。いや、文学は死に値するほどの崇高なものなのだと透谷は身をもって後続の者たちに示した(と藤村たちは思った)。

透谷の文章は読みづらい。

「人間の内部の生命なるものは、吾人(ごじん)之(こ)れを如何(いか)に考ふるとも、人間の自造的のものならざることを信ぜずんばあらざるなり」

こんな感じの、肯定だか否定だか一読では読み取れない、今の基準で言えば悪文が並ぶ。だがおそらく、この難解な文章さえも、当時の若者たちにとっては格好良く映ったのだろう。

 実際、明治近代文学における透谷の影響は計り知れない。多くの若者たちが透谷のように生きたいと思った。透谷の書けなかった小説を書きたいと考えた。

北村透谷「内部生命論」 「内面」描く新しい文学を予言)=朝日新聞2019年7月6日掲載


天才と自殺願望 北村透谷 (ブログ「天草俳壇」)

天才は自らの狂気を恐れる。恐れるあまり、自殺を試みる。明治27年5月16日払暁、北村透谷は東京芝公園地内の自宅の庭で縊死する。25歳である。前年末にも自殺未遂を起こしている。大日本帝国が日清戦争を戦う2か月前のことである。

北村透谷を一夜にして日本近代文学の旗手とした評論「恋愛と厭世詩家」の冒頭の一節は次の文章で始まる。 


恋愛は人世の秘鑰なり。恋愛ありて後人世あり。恋愛を抽き去りたらむには人世何の色味かあらむ。然るに尤も多く人世を観じ、尤も多く人世の秘奥を究むるといふ詩人なる怪物の尤も多く恋愛に罪業を作るは、抑も如何なる理ぞ。(略)


 「恋愛は人世の秘鑰(やく)なり。」という書き出しが島崎藤村を驚かせた。「恋愛は人世の秘鑰(やく)なり。」と言う文の意味は「人世の鍵は恋愛にある」と言っているのである。この評論が発表されたのは明治25年3月の『女学雑誌』であるから、透谷自殺の2年前であり、芥川龍之介が誕生した年に当たる。日本人は恋愛に否定的な考えは持ってはいなかったが、正面切って恋愛が人世の鍵であると言い切ったものは江戸時代はもちろん、明治になってもまだ誰もいなかった。透谷のこの恋愛至上主義ともいうべき一言に由って、日本近代文学が幕開けしたというのが文学史における評価である。そのことを後に島秋藤村が『桜の実の熟する時』の中で次のように書いている。

(略)

島崎藤村が上の文章を発表したのは大正7年2月『文章世界』誌上のことである。藤村が初めて透谷の文章に感動してから四半世紀の時間が流れているが、その感動は少しも薄れることがなかったのだ。透谷もまた藤村を通じて生き残ったということが出来る。藤村なければ、透谷の天才も明治文学史の一部分に名を残すにとどまったかも知れない。稀有なる魂の邂逅が透谷、藤村という日本近代文学の偉大な先駆者とその後継者を生んだのである。

天才は何故自殺願望を育み、繰り返し自殺を試み、遂に目的を果たして死の世界へ旅立ってしまうのだろうか。透谷はまだ10代から20代にかけて自由民権運動に身を投じ、早くも政治的社会的活動の素質の欠如を身を以て知り、文学へ志す。そしてこの民権活動から離脱する中で東京三多摩民権活動の最高指導者石坂昌孝の長女、3歳年長の石坂ミナと運命的出会いを果たし、紆余曲折の恋愛時代を経て、3年後数寄屋橋教会で結婚式を挙げ、京橋区弥左衛門町の自宅で新婚生活が始まる。透谷は没落士族出身の貧書生であり、石坂ミナは何不自由ない大地主の長女であり、横浜にあった共立女学校を卒業する。透谷もミナもキリスト教信者であった。

透谷の随筆に「三日幻境」がある。明治25年『女学雑誌』に掲載された。この中に透谷の俳句がいくつか載せられている。現在の東京都八王子市の郊外に当たる南多摩郡川口村に年長の友人秋山国三郎を訪ねた時の一文である。秋山国三郎は民権活動家大矢正夫(蒼海)を通じて透谷がまだ10代半ばの10年ばかり前に知り合った豪農であり、民権運動の支持者であった。この秋山は俳人であり、透谷は彼から俳句を学んだのであろう。 

(略)

透谷は『文学界』創刊第2号に「人生に相渉るとは何の謂ぞ」という文章を発表し、民友社の論客山路愛山の実益優先の芸術論を厳しく批判する。

(略)

近代日本文学を命がけで切り開いた透谷の天才も明治社会の現実の中で、しがらみの中で、桎梏の中で疲労困憊し、刀折れ矢尽きて自ら首括らざるを得なかった。同時代の俳句革新者正岡子規はこの頃はまだその道に踏み出す前であり、夏目漱石は英文学の大学院生であり、早熟の天才北村透谷とは同じ東京にありながら、路傍の人でしかなかった。尚透谷の号は彼の住んだ町の眼と鼻の先の江戸城外堀にかかった数寄屋橋から洒落たものである。透谷を訓読みすれば「数寄屋(すきや)」というわけである。


つづく

2024年4月18日木曜日

横浜元町のST(エスティー)さんでランチ 近くに咲いていたキモッコウバラ 2024-04-18

4月18日(木)曇り

今日は、横浜元町のST(エスティー)というお店でランチ。小さいお店でもあるので、予約客3組(6人)のみ。いいお店だった。   

お店は代官坂の途中にあるんだけど、ウグイスの鳴き声が聞こえるのには驚いた。

 










▼お店の近くに咲いていたモッコウバラ(キモッコウ)。
もうそんな季節なんだね。



柳澤協二氏 「国防というのは、国民の命を守ることではなくて、国民が命を懸けて国を守るのが国防なんです、だから国民がしっかり理解をして国民が守りたいような国を作るのが政治の役割なんですね、是非戦争になれば何を失うのか、何を得るのかってことをしっかりリアリティーを持って国民に説明をしていかなければいけないと思います」    

大杉栄とその時代年表(104) 1894(明治27)年4月1日~5月1日 対清強硬(戦争)論高まる 愛知県庁の工場労働者、「女工哀史」に描かれる状況よりも悲惨な状態 一葉、丸山福山町に転居 「水の上」時代  「奇蹟の十四箇月」(和田芳恵)の到来      

 


大杉栄とその時代年表(103) 1894(明治27)年3月28日~4月 日本に亡命していた朝鮮の独立派政治家金玉均(44)が上海で暗殺される 全羅道で東学党蜂起 一葉、3月29日~5月1日(丸山福山町への転宅前日)日記を書かず より続く

1894(明治27)年

4月1日

一葉の兄虎之助より1円50銭送金

4月7日

宮城道雄、誕生。

4月11日

「自由新聞」、対韓政策を貫くためには「まず対清の強硬を決心」することが必要と「忠告」。13日「戦決して避くべからざるなり」と説く。

4月11日

一葉、「文学界」同人と写真撮影会と懇親会に出席

4月13日

福沢諭吉、金玉均の暗殺と遺体の朝鮮送致に関して、「日本人の感情は到底釈然たるを得ざるべし」と論評。対外硬派は清韓同罪論を主張。

外務次官林董「回顧録」では陸奥外相の日清戦争決意はこの時と証言

玄洋社的野半介は陸奥外相に面会して対清戦争決意促す。陸奥は時期でないと述べ、川上参謀次長を紹介。川上は「火の手」が上がれば火消しはやると言明し、「火の手」の上がるのを促す。玄洋社は、後に「天佑侠」と名乗る朝鮮派遣隊組織に取り掛かる。

4月13日

徳川夢声、誕生。

4月17日

ニキータ・フルシチョフ、誕生。

4月20日

漱石の俳句が初めて『小日本』に掲載される。


「烏帽子着て渡る禰宜あり春の川」


これに続いて、1句ずつ掲載される。

「小柄杓や蝶を追ひ追ひ子順礼」(4月25日)

「菜の花の中に小川のうねりかな」(4月28日)。

4月21日

「金(玉均)朴(泳孝)遭難演説会」、東京で開催。23日にも。日本の国権を冒すものとして、日本の朝野は憤慨。

大井憲太郎、「我日本国は彼れ朝鮮の馬脚に掛けられたるものと謂はざるべからず。何んぞ、彼れ朝鮮の無礼を不問に置くぺけんや」と演説、

改進党員肥塚竜は「洪鐘字が放てる第一発の弾丸は果敢なくも金氏を穀せり。然れ共、其第二発は実に我国の躰面を傷つけたるを忘るぺからず。・・・我が躰面を傷つけたるものは洪鐘字にあらずして支那、朝鮮両国の共謀」と演説。

4月21日

狩野亨吉、第四高等学校を辞任して帰京。狩野はこの後4年間浪人生活を送り、明治31年1月、漱石の推薦で熊本第五高等学校に着任する。

4月22日

ハンガリー、大平原ホードメゼーヴァーシャールヘイで農業社会主義者騒乱。警察は労働者協会捜査。翌日、サーントー・コヴァーナ・ヤーノシュ逮捕。民衆・軍隊衝突。

4月25日

朝鮮、大将全琫準、総管領孫和中・金開南。蜂起目標公表。農民軍8,000組織。全羅道の首邑・全州を目指し、黄土峴という台地に移動。政府は、全羅道監司金文鉉・左領将李景鎬に討伐軍1600を編成させ、黄土峴に進ませる。

4月26日

一葉が石川銀次郎に依頼していた金が石川宗助(先代主人)によって届けられるが、依頼の50円に対して15円。今年は花が咲くのも散るのも早く、蒲鉾の売り上げが不振だったという。これが樋口家の転宅資金となる。

4月30日

一葉「花ごもり」其5~其7、『文学界』第16号に掲載。

4月30日

愛知県庁の工場調査。労働者2万3千(うち女子1万7千)。織物1/3(拘束時間12~16時間)、製糸1/3(11~17時間)、紡績1/4(旧式15~17時間、機械11~12時間)。「女工哀史」に描かれる状況よりも悲惨な状態

4月下旬

高野房太郎(25)、ニューヨークに移る。


5月

(時期不明)日本陸軍、実情調査名目で伊地知幸介証左らを釜山に派遣。釜山では、伊地知と繋がりのある内田良平(のち国竜会創設)・玄洋社社長頭山満配下の10数人が「天佑侠」結成。彼らは、東学党幹部に面会を申入れ、鉱山用ダイナマイト提供など申し出る。

5月

新聞各紙、朝鮮駐在公使大石正巳の防穀事件に関する強硬な「賠償」交渉を支持

この月、「自由」は「強硬政策を断行せよ」「姑息の平和を排せよ」との社説を掲げ大石を支援。改進党系新聞も同様で、「郵便報知新聞」5月18日号は弁償の約束だけでも今日結んで国家の威信を保持せよといい、「毎日新聞」(1886年5月「東京横浜毎日新聞」を改称)5月11号は「本邦朝野の耳目之れに傾く者は金高の上にあらずして国権の上にあるなり」と主張。陸掲南も「公使の挙動の不穏たるや否やを問ふ勿れ」(「日本」5月18日)で大石を支持。

5月

尾崎紅葉『心の闇』

5月

尾崎紅葉・大橋乙羽『西鶴全集』

5月

一葉家族、本郷区丸山福山町4番地(文京区西片1丁目17番)に転居

月額2円で「萩の舎」助教となる。


「五月一日 小雨(こさめ)成しかど転宅。手伝(てつだひ)は伊三郎を呼ぶ。」


この年から、星野天知、馬場孤蝶、戸川秋骨等文学界同人が多数来訪。

12月「大つごもり」発表。


「阿部邸(江戸時代の福山藩主阿部家の武家地)の山にそひてさゝやかなる池の上にたてたるが有けり。守喜といひしうなぎやのはなれ坐敷成しとて、さのみふるくもあらず。家賃は月三円也。たかけれどもこゝとさだむ」(「塵中につ記」明27・4)

住居は西片町の高台の崖下にあった。この新居は「守喜」(もりき)という鰻屋の離れ座敷を改築して、池とともに貸していた家屋であった。前隣には「浦島」、北隣には「鈴木」という銘酒屋があった。馬場孤蝶は一葉の旧居について後年、次のように記している。「方三尺位な履脱(くつぬぎ)の土間があり、正面は真直に三尺幅位の板の間が通って居る。それに沿ふて、右側には六畳が二間並んで居り、左側は壁と板戸棚であり、それから、上り口の左の方も一寸板の間になって居て、それから正面の廊下の右側の後になる所に、丁度隠れたやうな四畳半くらいな部屋があり、・・・入口の六畳の間で、大抵一葉女史は客に応接した」(『明治文壇の人々』)。池の上に建っていたので、当時の日記の表題は「水の上」と付けられている。四番地から北は以前は畑で、明治20年代に埋め立てられ銘酒屋や飲食店がたくさんできていた。「にごりえ」の菊の井はその界隈の銘酒屋の一軒として描かれている。

馬場孤蝶の回想。

「殊に一葉君の家の近辺が左様いふ商売屋の中心であったやうだ」、「今喜楽館といふ活動小屋の角を曲がった所などは、その当時は抜裏と云つて宜い程の狭さであったが、その辺から一葉君の家の前までは右側は殆ど門並さういふ家であって、人の足音さへすれば、へンに声作りをした若い女の『寄ってらっしゃいよ』といふ声が家の裡(なか)から聞えた」(「一葉全集の未に」明治45年6月)。

一葉はそういう女性たちと交わり、彼女たちが客に出す手紙の代筆などもする。


「となりに酒うる家あり。女子あまた居て、客のとぎをする事うたひめのごとく、遊びめに似たり。つねに文かきて給はれとてわがもとにもて来ぬ。ぬしはいつもかはりて、そのかずはかりがたし」


「ゆしまの坂道は此ほどまで町やにて、いとにぎやかなりしが、家をこぼち道をひろげて岩崎ぬしのやしきに成しより、石垣たかくつみて木立ひまなく、やみのよなどいとさびしくなりぬ

   月まではいかにやいかによの中の

        ひかりはおのが物になしても」(感想・聞書「しのぶぐさ」)


(「湯島の坂通りは最近まで商人たちの家が建ち並び大変賑やかでしたが、家を壊し道を拡げ岩崎氏の邸宅になってからは、石垣を高く積み植込みの樹々が茂り、夜などはすっかり寂しい通りになってしまった。

世の中のことは何でも自由にできる岩崎財閥でも、月の光まではどうにもならないものだ。」)

湯島天神下の切通し坂(春日通り)は、この頃、東京市の市区治改正工事によって道幅が大幅に広げられている。明治11年、岩崎弥太郎が深川区の清澄町、本郷区の六義園、下谷茅町のこの地区(現、池之端1-3)を購入するが、この頃には、更に所有面積を広げ、下谷区から本郷区にまたがり、切通し坂から無縁坂にかけて1万5千坪になる(現在の旧岩崎邸庭園の3倍)。日清戦争に向かうこの時代に、三菱は莫大な富を蓄積している。

三菱合資会社社長岩崎久弥(28)は、この頃は六義園内の邸宅に居住しているが、明治29年、茅町の本邸にジョサイア・コンドル設計の洋館が完成して転居する。

一葉は、その富者に痛烈な皮肉を浴びせる。

龍泉寺や福山町に住む一葉に非難を浴びせる者もいるが、一葉は肚を据えてこれに反撥。

三宅花圃の談話。

「夏子の君が先には吉原の傍なる浅草大音寺前通りに住みたまひ、今はまた本郷丸山の福山町なる銘酒屋なんどが限りもなふ軒をならぶる醜(みぐ)るしの街に宿を定めたまへるを諌めける人さへあり。妾もまた君の為めに言ふ所ありしに君は笑ひたまふて一言も答へせず、朗詠の声もすゞしく

   なかなかにえらまぬ宿のあしがきの

      あしき隣もよしや世の中

とて話題を他へそらしたまひぬ」(「讀賣新聞」明治29・11・30)

日清戦争と生活の窮乏:

新居での一葉たちは、たちまち困窮を極めた。引越しの準備として用意した資金は、店を引き払う際の出費と生活費でほとんど無くなってしまった。折から日清戦争による物資の不足やインフレが、窮乏に一層の拍車をかけた。朝鮮半島で起こっている非常事態の詳細は、新聞を取ることのできない一葉にとって、容易に知り得る所ではなかった。そのため、一葉は戦争に対してむしろ冷静であった

戸川秋骨が、丸山福山町を訪ねた印象として、「会ってみると想像とは全然違った、調子のいゝ人懐っこい方でした。戸外に号外号外と呼ぶ声が頻りに聞えるので、世間では大分騒いでゐますね、といって一寸澄して居られた様子なぞは甚く私共の気に入ったので其後はしばしばお邪魔にあがりました。」と語っている(『国民新聞』明治41年11月23日付)。

しかし丸山福山町での生活は、借金の融通を交渉した相手にすべて断られるなど、屈辱と後悔の日々であった。

所謂「奇蹟の十四箇月」(和田芳恵)の到来

丸山福山町で、「やみ夜」(明治27年7月~11月)、「大つごもり」(27年12月)、「たけくらぺ」(28年1月~29年1月)、「ゆく雲」(28年5月)、「にごりえ」(28年9月)、「十三夜」(28年12月)、「わかれ道」(29年1月)、「この子」(同上)、「裏紫」(29年2月)、「われから」(29年5月)と、次々に晩年の作品を書き続ける。


①26年3月、「雪の日」発表を契機とする「文学界」同人との交流による文学的開眼。

②下谷竜泉寺町、丸山福山町の暮らしの中で、底辺に生きる庶民の赤裸な生活にじかに接することによって、現実を見据え、客観的にものごとを観察できる視点を身につける。

③この年7月の樋口幸作の病死の影響。

一葉は、「わが身の宿世もそぞろに悲し」と記して自分の短命を予知するところとなる。幸作の死は、一葉に結婚をあらためて断念させ、その創作意欲をいっそう駆りたて、自己を生かす道は小説を書くことより他にないとの決意を促すことになった。

創作の転機になった原因には、他にも、萩の舎を焦点とする旧派和歌への失望と、歌塾の師となる希望の放棄、そして、半井桃水に対する恋情の清算ないしは超脱といった諸要素の、重層的な発生にも拠るところが大であった。

日記は「水の上」又は「水の上日記」と改題。

①「塵の中」期の最後の日記と「水の上」期の最初の日記の問に1ヶ月の空白(1冊分の記録が散逸)。

②27年7月~28年4月が大きく欠落(11月9日~13日の部分は現存)。一葉が処分したと考えられる。この欠落部分には、日清戦争の興奮や久佐賀義孝・村上浪六らとの苦い交渉が記録されていたはずである

③28年6月~10月、11月~12月、29年2月~5月も空白。これは「にごりえ」「十三夜」「たけくらペ」「わかれ道」「通俗書簡文」「われから」などの執筆に忙殺されて記録を怠ったと考えられる。

④傍系日記としては、「つゆしづく」の後半部分、二つの残簡(明27・秋~同28・1)、「しのぶぐさ」(明28・1~2)が詞書の和歌の形式で書かれ、序文だけが書かれた「詞がきの歌」もある。

続いて、「随感録」「さをのしづく」(明28・2~4)がある。「しのぶぐさ」は詞書に日付が多く出て来るので、日件録に近い印象を与える。

雑記系統は、日清戦争時に書かれた「かきあつめ」(明27、28頃)と「うたかた」(明27・末~同28・冬)が存在するだけ。

記録は29年7月22日で終り、その後「はな紅葉一の巻」の余白を使用して病床でわずかな手記が書かれ、それが最後の日記になっている。


つづく


2024年4月17日水曜日

こどものおつかい以下! 〈電話で事情聴取なんてありえない 森氏は「ご機嫌伺いのような話だった」と言ってる〉 → 岸田総理 森元総理への聴取は「やりとり明らかにしない前提」で実施 裏金事件への関与は確認できずと改めて強調(TBS) / 「内容を明らかにしない事情聴取というのは事情聴取ではない」 / 岸田首相の森喜朗「電話聴取」の一問一答がヤバすぎ《茶番劇「ご指導をお願いしたい」の一部始終》          



 

政治家が隠していた裏金と生活苦の「別世界」(小林美穂子 毎日);「庶民は悪いことをしたら捕まりますし、税金逃れをすれば摘発されます。ところが政治家はなにをやってもよくて、裏金をたくさんためておいて「税金は払いません」と言います。それで、おとがめがありません。」 / 258円の万引きで逮捕された女性 / 無人駅の運賃箱から20円盗んだ疑いで逮捕の65歳無職(TNCテレビ西日本) / いなりずし万引き容疑で70代女性を誤認逮捕 滋賀県警(NHK); 300円のいなりずし、しかも誤認逮捕、しかも3日間拘留   



 

「文藝春秋」告発手記で渦中の千代田区長が「公務ドタキャン」行方不明になっていた!(文春オンライン) / 元都民ファーストの会事務総長の小島敏郎氏が日本外国特派員協会で会見し、小池百合子都知事のカイロ大学歴詐称疑惑を巡る隠蔽工作を告発(2024-04-17) / 【小池都知事学歴詐称問題】「カイロ大学声明文」以外にもあった、もう一つの〈隠蔽工作〉(2024.4.16 黒木亮) / 舛添要一氏〝経歴詐称疑惑〟小池都知事に40年前感じた違和感「彼女はヘラヘラっと笑って…」(東スポ) / 【小池都知事学歴詐称問題】告発者たちとカイロ大学の言い分は、なぜ真っ向から食い違うのか?(2024.4.15 黒木亮) / 若狭勝氏 小池百合子都知事の学歴詐称騒動が刑事事件になる可能性を指摘「私文書偽造罪が考えられる」(東スポWEB) / エジプト軍閥の“子飼い”小池百合子の運命③ エジプトへの個人的な見返り、日本人の血税300億円(特別寄稿)(浅川芳裕2020-7-4) / この記事を読んで、一つ驚いたのは、日本のODAでカイロのオペラハウスが作られたこと。 / 小池百合子都知事が、自分の学歴詐称疑惑を否定する声明を出してくれたカイロ大学にお礼の表敬訪問をし、都政と関係ないカイロ大学への無償援助の拡大を表明。これまでもカイロ大学に300億円に及ぶ教育援助の口利き役を、という記事 / 小池百合子都知事の学歴詐称疑惑に元同居人が覚悟の実名証言(前篇)(後篇) /  小池都知事「元側近」の爆弾告発「私は学歴詐称疑惑の“隠蔽工作”に手を貸してしまった」(文春オンライン) / 「私がカイロ大声明を発案した」 小島敏郎 元都民ファーストの会事務総長(月刊文藝春秋5月号掲載) 

 

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小池都知事「元側近」の爆弾告発「私は学歴詐称疑惑の“隠蔽工作”に手を貸してしまった」】 
 「カイロ大学声明」を作った元ジャーナリストのA氏  
そんなある日、神宮外苑再開発について、ある人物と情報交換をしている時のこと。
問わず語りに小島氏が自分の苦悩を口にすると、相手からこう尋ねられたという。 
「小島さんには、小池さんと戦う気持ちがあるか」  
その人物は、表には出ていないが小池都知事のブレーンを務めていた元ジャーナリストのA氏だ。
そして、彼は小島氏に打ち明けた。 
 「実は駐日エジプト大使館のフェイスブックに上げられたカイロ大学声明は、文案を小池さんに頼まれ、私が書いたんです」 
 「カイロ大学声明」は、カイロ大学が作成したものではなく、小池氏がA氏に依頼して作ったものだったのだ――。
さらに、エジプト大使館のサイトに声明文を掲載することをアドバイスしたのもA氏だった。

 


  

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大杉栄とその時代年表(103) 1894(明治27)年3月28日~4月 日本に亡命していた朝鮮の独立派政治家金玉均(44)が上海で暗殺される 全羅道で東学党蜂起 一葉、3月29日~5月1日(丸山福山町への転宅前日)日記を書かず   

 

洪鐘宇に殺害される金玉均

大杉栄とその時代年表(102) 1894(明治27)年3月12日~27日 馬場孤蝶(25)が初めて一葉(22)を訪問、一葉は好意的評価 一葉、久佐賀に物質的援助を請う 子規『一日物語』  一葉、転居費用調達と桃水訪問 より続く

1894(明治27)年

3月28日

金玉均(44)、上海着。旧守派密命(背後に高宗)帯びた洪鐘宇により暗殺。4月4日、遺体を朝鮮に陸揚げ処刑、

金玉均;

科挙の文科に合格、1872年に任官。実学(朝鮮の儒教の観念的な学問から脱却して西洋の学問を取り入れ、実用的な経世のための学問をめざす)の影響を受け、朴珪寿(シャーマン号事件を撃退した指揮官)の門下生となる。朝鮮王朝の停滞を打破する手本として学ぼうとしたのが明治維新を達成して近代化に着手していた日本であった。同志として朴泳孝などと交流し、開化派を形成したが、宮廷内の閔妃一族など守旧派(清との関係を重視し事大党とも言われた)からは独立党という一派を結成したとして非難され、対立が深まる。

1882年2月~7月、日本に遊学、長崎・京都・大阪などを見て、3月6日に東京に入り、後藤象二郎、井上馨、大隈重信、伊藤博文などの政治家と面談し、福沢諭吉とも親密な関係を持つようになる(慶應義塾や興亜会に寄食)。

1876年の日朝修好条規によって開国した朝鮮は、不平等条約のもとで米が日本に流出して米価が高騰、生活が苦しくなった兵士・民衆の中から、1882年に壬午軍乱が起こった。きっかけは給与の米穀が遅配されたことに怒った兵士の反乱であったが、開国を推進した開化派に対する反発が強まったことも背景にあった。反乱軍は閔妃政権を倒し、日本公使館を襲撃し、保守派として人望のあった大院君を担ぎ出した。しかし、まもなく清が介入して大院君は天津に拉致され、閔妃政権が復活し、清の宗主国としての影響力が強まり、日本の勢力は後退した。

この時、金玉均は日本にいたが、政府内の開化派官僚が清の大院君拉致を要請したことに反発した。そのため、清の宗主権のもとでの改革をめざす穏健派が生まれたのに対して、金玉均ら開化派の急進派は清の宗主権を否定して独立を完全な実現することを主張して独立党としての結束を強め、こうして開化派が分裂した。

1882年10月、壬午軍乱の謝罪使として朴泳孝(開化派で最も地位がたかった)が選ばれ、金玉均が随行し、福澤諭吉の仲介で横浜正金銀行から借款を受けることに成功した。そして福沢諭吉の援助によって活字印刷を導入し『漢城旬報』が創刊され、開化派が力を入れた世界情勢の広報も始まった。しかし開化派の勢力拡大に反発する閔妃政権は、朴泳孝を解任するなど圧力を強めたので、金玉均ら急進派は閔妃政権を倒し、清の介入を排除することが急務であると考えるようになった。

ベトナムで清仏戦争が起こり、朝鮮の清軍が手薄になった機会に、1884年12月4日、日本公使の竹添進一郎の協力も得て閔氏政権打倒のクーデター(甲申事変)を起こし、いったんは権力を掌握した。5日には開化派中心の内閣を組織し、6日に改革方針として新政綱14ヵ条を発表した。しかし、7日、袁世凱の指揮する清軍が攻撃を開始し、王宮を守る日本軍が撤退したためクーデタは失敗し、権力は3日間で崩壊した。このクーデタ失敗を甲申政変という。

金玉均、朴泳孝ら9人は日本公使館員とともに仁川に脱出し、かろうじて千歳丸に乗船することができた。しかし清の武力を背景に成立した臨時政府の役人は彼らの引き渡しを要求する。日本公使竹添進一郎はあきらめて金玉均らに下船を命令した。金玉均一行は日本公使の冷淡な態度に腹を立てたものの、もはやこれまでと観念し、敵に捕らわれるよりも自刃して果てようと決意した。そのとき千歳丸の船長辻勝三郎は、毅然として「この船に乗船した上はその進退はすべてわたしが預かる」と申し出て船を出した。こうして金玉均らは自決寸前で救われ、日本に向かった。

日本に亡命した金玉均は日本において約10年に近い悲惨な亡命生活を送る。金玉均は岩田秋作と名乗って東京に潜行したが、日本政府はやっかい者扱いし、外務卿井上馨などは会おうともしなかった。朝鮮の開化を応援していた福沢諭吉は金玉均らを自宅に招いてその労をねぎらった。

1885年11月、金玉均は自由党員の大井憲太郎と連絡をとり、大井ら日本の活動家と共に朝鮮に渡り、クーデタを起こそうとした。しかし、閔氏が放った密偵にその計画は探知され、日本政府に伝えられ大井憲太郎が逮捕され、計画は失敗する。日本政府から危険視された金玉均は、小笠原に送られたが、そこで体調を崩しついで札幌に移される。

その後、ようやく東京に戻った金玉均は、李経方(李鴻章の甥で養子、日本清国公使官)と李鴻章に会うため松江府上海県に渡ったが、1894年3月28日に上海の東和洋行ホテルで朝鮮末期の高官の洪鐘宇に射殺された。犯人の洪鐘宇は日本で金玉均に近づいて信頼され、上海までついてきた男だったが実は、閔氏一派が送り込んだ刺客だった。

金玉均殺害を日本政府は朝鮮王朝と清の謀略であるととらえ、凌遅処斬刑(死体を切り刻む)という凄惨な死をさかんに宣伝し、清との戦争を煽った。

李鴻章は金玉均の屍体を刺客洪鐘宇とともに北洋艦隊の軍艦で朝鮮に送った。朝鮮政府は漢江の江岸にある楊花鎮で屍体に「凌遅処斬」(あらためて体を切り刻むこと)の惨刑を加え、「謀叛大逆不道罪人玉均」と記した札を立てて、さらしものにした。日本では親日派金玉均の死は大々的に報じられ、追悼義金の募集などが始まり、清国の処置に非難が高まった。

金玉均の交友関係は広く、また書家としても名高くその書は生活の費えとしたので日本人もあらそって買っているので、日本人にも知己は多かった。しかし金玉均は日本の、特に政府、有力政治家には裏切られたという意識を強く持っていた。

彼を上海に行かせたのは危険なことはわかっていたが、日本政府はそれを黙認した。また上海で刺客に襲われたとき、付き添っていたただひとりの日本人和田延二郎の証言によると、和田は遺体を日本に運ぼうとしたが、日本領事が妨害し、その棺を居留地警察の手から清国官憲の手に渡してしまったのだという。

洪鐘宇:

1886年に日本に渡り、朝日新聞社の植字工として働きながらフランス語を勉強し、1890年に私費留学した(朝鮮人初のフランス留学生)。朝鮮王朝の中央高官になる夢を持っていが、朝鮮王朝下で高位に上がるには国王・皇后の推薦が必要であり、つてのない洪は諦めていた。

甲申政変で自分を苦境に陥れた金玉均への復讐に燃えていた朝鮮王妃閔妃は、開化派と信頼を得やすく金玉均のそばに近寄れる刺客を探させていた。フランスから帰って日本で生活中の洪に刺客の勧誘があり、洪も閔妃の推薦を受けて官職を得たかったため引き受けた。1894年(明治27年)、洪は甲申政変に失敗して日本に亡命中の金玉均に接近。活動資金を提供すると騙って上海に誘引し、同行した東和洋行ホテルにおいてピストルで銃撃、暗殺した。

帰国した洪鍾宇は閔妃の歓迎を受け、その功績で地方裁判所の長官に任ぜられ、舎宅を与えられた。そして、洪は済州島の長官の任を与えられた。さらに要職を望んだが朝鮮王朝に拒否され、失意の内に愛人を連れてパリに旅立った。朝鮮王朝から開化派暗殺という役割を果たした後は用済みとされ、以後の消息は不明となっている。日韓併合後の1913年には没したとされる。

犬養毅・尾崎行雄らは慣例に従った遺体引渡しを主張。大井憲太郎・井上角五郎・岡本柳之助らは「故金氏友人会」を組織し、岡本と尾崎行雄門下生斉藤耕一郎が遺体引取り交渉のため上海に渡るが、先に遺体は朝鮮に送致。

3月28日

反政府・反自由党系新聞の記者たち、条約励行・責任内閣実現など掲げ、「新聞の同盟」結成を申合せ。尾崎行雄、肥塚龍、末広重恭、徳富猪一郎(蘇峰)、鈴木天眼、陸実、川村惇。

3月29日

朝鮮、全羅道で東学党蜂起。全琫準総督。政府の裏切り糾弾の檄を飛ばす。古阜郡の要地白山を根拠地にする。

3月29日

一葉、3月29日~5月1日(丸山福山町への転宅前日)、日記を書かず

4月の日記のメモの一部に、「店をうりて引移るほどのくだくだ敷、おもひ出すもわづらはしく、心うき事なれば得かゝぬ也」とある。

5月4日から「水の上日記」として新たにスタート


4月

北村透谷「エマルソン」(民友社)

4月

内田貢(魯庵)『文学者となる法』。硯友社、特に尾崎紅葉を皮肉る。


「明治二十七年の四月、さきに宮崎湖処子の詩集を出版した新進の文芸出版社右文社は「文学者となる法」という菊判の薄い本を出版した。この書物は、「神田錦町の麦酒屋に寄合ふKit-Cat Club に折々顔を見せる三尺八寸の大入道」なる三文字屋金平なるものの講釈を、後輩の一文字屋風帯が筆記したもの、と序に書かれていて、書物の奥付には著作者宮沢俊三と記されてあった。その内容は現時文壇と文士の徹底的な悪口を、博引旁証極まりないような学識ぶりを示しながら書き立てたものである。この書物は序文によると、書かれたのが「二十六年の大晦日前三日」ということになっているが、出版されたのは、「滝口入道」が「読売」に連載されていた四月である。この書が現れると、文壇は鼎の沸くような騒ぎになった。」(伊藤整『日本文壇史』第3巻)


「・・・・・『文学者となる法』の実際の著者は、内田貢、つまり当時『国民新聞』を中心に健筆をふるっていた批評家の内田魯庵だった。魯庵はまた、優れた外国文学の紹介者としても知られていた。明治二十五年十一月、彼は有力な出版社内田老鶴圃(同じ内田でも魯庵と何の関係もない)からドストエフスキーの『罪と罰』の第一巻を訳出(英語からの重訳)し、続けて翌二十六年二月にはその第二巻を刊行した。結局、後篇にあたる第三、四巻は未刊に終わったが、この『罪と罰』の本邦初訳は当時の日本の文学シーンで大きな話題を呼び、合わせて百本以上の紹介記事が新聞や雑譲に載った。」(坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』(新潮文庫))

4月

一葉は一時中嶋歌子に頼らず旧派短歌から脱皮をはかろうとしたが、歌子の提案によって、萩の舎で稽古を助教として手伝うことになる。


「四月に入てより、釧之助の手より金子五拾両かりる。清水たけといふ婦人、かし主なるよし。利子は二十円に付(つき)二十五銭にて、期限はいまだいつとも定めず。こは大方(おほかた)釧之助の成(なる)ペし。かくて中島の方も漸々(やうやう)歩(ほ)をすゝめて、「我れに後月(ごげつ)いさゝかなりとも報酬を為して、手伝ひを頼み度」よし師より申(まうし)こまる。「百事すべて我子と思ふべきにつき、我れを親として生涯の事を計らひくれよ。我が此萩之舎は則ち君の物なれば」といふに、「もとより我が大任(たいにん)を負ふにたる才なければ、そは過分の重任なるべけれど、此いさゝかなる身をあげて歌道の為に尽し度心願なれば、此道にすゝむべき順序を得させ給はらばうれし」とて、先づはなしはとゝのひぬ。此月のはじめよりぞ稽古にはかよふ。

花ははやく咲て、散がたはやかりける。あやにくに雨風のみつゞきたるに、かぢ町(ちやう)の方(かた)、上都合(じやうつごふ)ならず、からくして十五円持参。いよいよ転居の事定まる。家は本郷の丸山福山町とて、阿部邸の山にそひて、さゝやかなる池の上にたてたるが有けり。守喜(もりき)といひしうなぎやのはなれ座敷成しとて、さのみふるくもあらず、家賃は月三円也。たかけれどもこゝとさだむ。

店(たな)をうりて引移るほどのくだくだ敷(しき)、おもひ出すもわづらはしく、心うき事多ければ、得かゝぬ也。」

(四月に入ってから西村釧之助氏の手を通してお金を五十円借りる。清水たけという婦人が貸し主とのこと。利子は二十円に付き二十五銭で、期限は何時までともまだ決めていないという。恐らくこれは釧之助のお金でしょう。

そのうちに萩の舎の塾の方とも段々に話が進んで、私に月にいくらかでも報酬を出して手伝いを頼みたいと先生から話して来られる。

「何事につけても万事我が子と思っているので、私を親として生涯のことを考えてほしいのです。私のこの萩の舎はあなたのものなのですから」とおっしゃる。

「もともと私にはその大任をお引き受けするほどの才能は持ち合わせていないのですから身に過ぎた重い任務ではございますが、このささやかな私の今身全霊をあげて歌道の発展のため尽くしたいと心から願います。ついてはどのようにしてこの道を進めて行くべきか、お教え下されば嬉しく存じます」とお答えして、まずこの話は決まったのです。そして、この四月の初めから稽古の指導に通っているのです。

桜は早く咲いて、散るのも早かった。あいにく雨風の日ばかり続いたためか、鍛冶町の石川銀次郎の方もあまり芳しいことはなく、やっとのことで十五円持ってきてくれた。これでいよいよ転居のことがきまる。

家は本郷の丸山福山町という所で、阿部邸の山にそって、その下に小さな池があり、その池の上の方に建てられたのかあった。「守喜」という鰻料理屋の離れ座敷であったとかで、それほど古くもない。家賃は月三円。高いけれども此処を借りることにきめる。

店を売って引っ越しをするまでの間のごたごたした事は、思い出すのも煩わしいほど不愉快なことが多かったので、ここにはとても書けない。 )

4月

ハンガリー、義務的民事婚法案、下院で大多数承認。


つづく

県民局長の斎藤知事批判文書問題 兵庫県人事課が本紙記者を聴取 (神戸新聞) / 「贈答品」県幹部が返却 県職員「告発文」問題 加西の会社に(読売) / 兵庫・斎藤知事を揺るがす「告発文書」 阪神・オリックスパレードにも疑惑が(AERA) / 兵庫県知事を中傷する文書、筆者の元幹部が公益通報 解任され、県の調査は「真相究明できない」(神戸新聞) / 兵庫県の斎藤知事 自身の疑惑の真偽、明言避ける  「一つ答えると次も次もとなる」  解任の元県民局長文書問題(産経) / 内部告発された斎藤知事、会見にて『反論文書はまだ見ていない』という裏設計を開始20秒足らずでバラしてしまう… 「報道等では承知していますけど、私については内容そのものは承知していないことになっています。(アッ!)してません!」 / 兵庫県庁大激震!定年退職直前の幹部職員が知事などの行為を内部告発!そのウラ事情とは?(YouTube) / 知事や職員を中傷する文書流布か 退職間際の兵庫県幹部、処分を検討(朝日) / 兵庫県幹部が知事を中傷する文書を配布 知事「うそ八百」と解任、退職認めず 報道機関や県警が入手(神戸新聞) / 「定年退職が近い県民局長が知事らを批判する文書を作成し、報道機関や議会などへ送っていたという。退職が目前なのに降格処分を覚悟しての確信犯的行動だろうが、むしろ局長にそこまでさせた兵庫県で何が起こっているかが気にかかる。— 吉富有治」



 

2024年4月16日火曜日

横浜公園と山下公園のチューリップ ピークは越えているがまだまだ見応え十分 10万本のチューリップに圧倒される 2024-04-16

4月16日(火)はれ

横浜公園(スタジアム)のチューリップが見頃。10万本とのこと。圧倒される。

いまは、ピークを少し越えた辺りかも。でも、まだまだ見応えは十分。










▼こちらは、山下公園
恒例の花壇展もまだ開催中だが、写真は割愛。





万博より能登の復興を優先して下さい → 能登復興に「コスト削減」を持ち出した財務省に被災地は憤慨 そこまで節約したいなら、万博が先では?(東京) / 珠洲「何も変わっていない」ほぼ全域で断水続く/1次避難所になお900人 記者ルポ(岐阜新聞) / 被災地の今。この動画は珠洲ですが、あの冬の頃と景色が何も変わっていない。戦場の様な光景がいつまでも続く。(野口健) / 避難所の閉鎖、行政の弁当打ち切り、炊き出し打ち切り、一律五万の支援金すらいっこうに振り込まれない。、、、 日本どうした?そう思わずにはいられなかった。(七尾旅人) / 朝市通りの瓦礫撤去の目処は立っていません / 進まない”公費解体” 申請数は5000を超えるも解体完了はわずか”3棟”(テレビ金沢) / 能登の被災地に防犯カメラ1000台設置完了 2次避難を促進(毎日) ← 冗談かと思ったよ! ガレキとか水とかを早く!          

 

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