2017年8月22日火曜日

大正15年/昭和元年(1926)4月 中野重治(24)ら「驢馬」創刊 新人会・社研の活動(石堂清倫「わが異端の昭和史」より)

ムクゲ 2017-08-22
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大正15年/昭和元年(1926)
4月
・「驢馬」創刊。
中野重治(24)、窪川鶴次郎、宮木喜久雄、西沢隆二、堀辰雄(22)。翌年3月迄に10冊。その後1年ほど休刊し、2冊出し、1928(昭和3)年5月、第12号で終刊。堀は昭和3年5月の終刊までに詩作、エッセイのほかアポリネール、コクトー、ジャコブ等の訳詞を発表。

「『駿馬』の印刷費が東京では高くつくので、金沢の何とか印刷所に態々原稿を送り、宮木は校正その他の用件で度たび金沢に行った。・・・同人費は五円くらゐに覚えてゐるが、印刷製本代に不足分の三四十円は私が毎月手伝ふことになってゐたが、宮木の汽車賃も同様私が支払った」(犀星「『駿馬』の人達」)という。
同人のほか、室生犀星、萩原朔太郎、芥川龍之介、佐藤惣之助、高村光太郎、千家元麿、福士幸次郎、田島(窪川)いね子らが寄稿。
全12冊。
「北見の海岸」「夜明け前のさよなら」「歌」などの詩、「『郷土望景詩』に現われた憤怒」「啄木に関する断片」などの評論その他を発表。

この年始めか前年末の創刊打合せ。
「僕が中野と始めて会ったのは、今度僕等で同人雑誌をやらうといふので、その頃田端の或る二階に間借してゐた宮木喜久雄のところへ、みんなで落ち合った時だった。なんでもみんなで五十銭づつ出し合ひ、鳥の臓物を買ってきてそれを煮てたべながら、雑誌のことを話し合った。酒は室生さんの家からとどけられた。-みんなといふのは、主人役の宮木喜久雄を始め、窪川鶴次郎、西沢隆二、平木二六(かれは途中でみんなから離れたが)それに僕だった。-その時、中野はすこし遅れてやってきた。どこで飲んできたのか、もうすこしいい気持さうだった。中野と僕とは初対面だつたが、中野は僕を見て『やア、堀君かね』といってその詩人らしい髪毛のモジャモジャした頭をちょっと下げたきりだった。そしてそれからといふもの、彼はほとんど一人でのべつ幕なしに喋舌り立てた。酒もよく飲んだ。そして七輪の上の鍋のなかから、器用な手つきで、何かしきりに探し出してそれを口に入れては『うまい、うまい』と云ってゐた。それは慈姑(*クワイ)だった。さて、話が雑誌の題名のことになった。すると中野は『「シャリン」といふのはどうかね』と云った。『シャリン?』何のことかみんなには解らなかった。そしたら彼は『車の輪の車輪だ』と説明した。そして一人でそれがひどく気に入ってゐるらしかつた。誰かが、それは字面はいいが、言葉では何のことやら解らないから駄目だと反対した。『それでは「赤蝿」といふのはどうだい』と彼は再び云った。それはまた誰かにそれはあんまり君だけの好みであり過ぎる、といって反対された。その時分、もうすでに、僕等の仲間で中野一人だけが『目ざめた男』になってゐたのであった。雑誌の題は、たうとう『駿馬』といふのに決った。これは僕がつけた名だった。僕がそれを云ひ出した時は『「駿馬」か。はツはッは』と中野が真先になって笑ったが、みんなはいつかこの名前に愛着を持つやうになった。そして最後にこれにしようかと云ふことに決まりかけた時、中野は最もそれに賛成した一人だった。それは、その頃(もちろん今でも変りはないが)みんなはひどく貧乏してゐたし、それにみんな揃ってフランシス・ジャムの詩が好きだったりしそゐたからであったらう」(堀辰雄「中野重治と僕」(1930年7月号『詩神』))。

「いったいに、『驢馬』の連中には新しい知識、世界知識がとぼしくて、田舎者風のところがあった。ただ堀がいて、ヨーロッパのごく新しいところへ向けて、窓をひらいてくれるという恰好であった。堀のやり方がやり方だったから、講義風のものは取り入れなかったが、断片的ではあっても、生きたほんものが堀の手でわれわれに分けられたようだったと思う」(中野重治「ふたしかな記憶」)。

「君は生涯にわたって清潔であった。しかしそれは、はたを露骨に刺戟する類の病的潔癖とは無縁のものであった。君は生涯にわたって温雅であった。しかしそれは、他の前に自己を曲げる類の妥協とは無縁のものであった。特にこの温雅ということについて、『駿馬』の全同人が君の影響を受けたのであったろう」(中野重治の堀辰雄への弔辞「告別式に」)。

「堀のまわりには、先輩として芥川、室生、萩原、佐藤というような人がいた。この人びとはそれぞれに認めていた。堀の才能、堀の学問好き、堀の誠実な生きる態度・・・そして堀のほうでもこの人びとに愛と尊敬とを持っていた」(中野重治「堀辰雄のこと」)。
・石堂清倫「わが異端の昭和史」にあるこの頃の状況
「新人会森川町合宿 このころの新人会本部は、谷中桜木町から下谷清水町に移っていた。それでも藍染橋までの坂道は、私にとって楽ではなかった。会では会員もふえたので、大学付近にもう一つ会の合宿を設けることになった。それが西田と私の仕事になったので、三月中千駄木から西片町、森川町の界隈の家を探した。結局本郷通りの赤門よりの教会と岡埜栄泉堂のあいだを降りて、カフェ・エトアールの近所の三河屋の離れ屋敷を借りることにした。・・・このときはじめて私は実名で標札を出した。小松へ帰って唯一の財産である鍋、釜、食器を東京へ送り出し、弟は東京の学校へ、末の妹は義兄に預けることにして、上の妹の千代を連れて上京した。・・・十六歳の千代は炊事係で、階下の六帖は食堂、会議室、兼私の寝室で、階上には西田、内垣安造、森静夫(のち岩波書店編集部に入り、『日本資本主義発達史講座』を担当した)、川口浩、医学生の金沢達が常連で、このほか瀬口責(鹿地亘)、亀井勝一郎その他も短期間同宿した。大学に近いので多勢の仲間が訪ねてきた。会員外では中野好夫や西田の友人大槻文平、永野俊雄などの名も記憶にある。しかし最初の訪問者は本富士署の太田刑事で、この男はほとんど毎日やってきた。しかし何といっても、労働組合や農民組合、地方学聯の上京者が無料宿泊にやってきた。その費用は合宿者の負担になるので、財政はいつもピンチで、妹に渡す五円の手当はいつも赤字埋めに召しあげたのである。当時は何かの左翼の行事やカンパニアの前に、目ぼしい幹部を予備検束する悪習があった。そんなときに杉浦啓一だの中尾勝男など、評議会の幹部がよく泊りにきた。彼らは奇妙な別室の客になったわけである。一九二六年の四月の新学期から、合宿の雑務のほか、猛烈に仕事がふえた。一つは東大学友会社会科学研究部の部会の拡充である。

社研とRS 新人会は随時公開講演会を開いたが、常設の公開研究会はなかった。学友会の研究会は、その欠陥をおぎない、いわば学際の研究会なのであった。一九二六年はおそらくその最盛期を形成した。法制、社会文芸、哲学、経済学、社会医学、工学、農村問題の各研究会のほか、合同研究会もあった。たとえば法制部門は、平野義太郎助教授を講師として、その著『法律における階級闘争』の研究のあと、ハインリヒ・クーノーの『マルクスの歴史・社会・国家学説』の講読をやっていた。私が責任者になった経済学研究会の、山田盛太郎助教授によるカウツキーの『マルクスの経済学説』(邦訳『資本論解説』)の講義は人気があった。・・・やはり私が担当した哲学研究会は、平田こと河野正通助手がデボーリンの『戦闘的唯物論者レーニン』(志賀義雄訳『レーニン主義の哲学』)をテクストに使って講義をした。大森義太郎助教授のブハーリン『史的唯物論の理論』の講義は、前年から継続のものであった。この三人の助教授は東大の三太郎といわれ、新進の学者であったから、社研に集る人が多かったのは当然である。三人ともまだ若く、学生にとっては先生というよりも兄貴分であった。・・・社研会員は総数四百名近く、テーマはすべてマルクス主義的であった。東大の学生はみなで六千名といわれたから、社研は学内でも大きな勢力であった(・・・)。

このほかにも、社会科学=マルクス主義にたいする関心をもっていながら、社研に近づきにくい学生もあるはずであったから、私たちは出身高校別の読書会をつくってみた。最初に四高出身者中心の北辰読書会(「北辰会」は四高の生徒会の名称)をつくり、最初の二回は法学部の上杉慎吉教授の出講を頼んでみた。上杉は新人会と正面から対立する右翼七生社の指導者であるから危ぶまれたが、すすんで出席してくれた。上杉がくるならという興味もあって、これまで新人会はもとより、社研にも近づかなかった学生がたくさん集った。私たちは上杉と論争する準備をしていたが、彼もさるもので、若いうちにこそ徹底的に学ばなければならない、自分も以前はマルクスの労働機関説を勉強したものだという調子で、われわれの考えたような論争に発展しなかった。この読書会にすぐれた学生が何人か加わったのは、大きな成果であった。われわれ学生の魂胆は察していただろうに、快く出席してくれた上杉には頭のあがらない思いがした。私はえげつない計画をたてたことを反省した。後藤のことを口汚く罵った美濃部と、はめられるのを承知で出てくれた上杉とどっちが人間としてりっばか深く考えさせられた。この北辰読書会の成功に力をえて、新人会は各高校別の読書会をつくる方針をたてた。これは学聯全体にひろがり、RSの名で拡大していったが、しまいには共産青年同盟の別名のようになってしまった。

学内の社研は、正式にいえば学友会社会科学研究部で、運動部と並立する組織であった。学友会の民主化は学内運動にとっても大きな役割をもつものであるから、学生委員の選挙には大きな努力をそそいだ。新人会の対策委員の㌻人になった私は、文学部の候補者中野の選挙運動を受持った。・・・中野は高点で学生委員に当選した。・・・新学期の新人会紹介講演会で、正木千冬がイギリス炭坑争議をめぐる三角同盟の運命を決した四月十五日のストライキ中止の裏切を批判した「ブラック・フライデー」と題する講演は多大の感銘を与えた。三年間に聞いたうちでは、森戸辰男と正木の講演が双壁であった
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