2017年9月24日日曜日

大正12年(1923)9月16日 大杉栄・伊藤野枝・甥橘宗一らの虐殺(その4) 10月8日 第1回軍法会議(午前の尋問) 大杉殺害の様子が検察官調書と微妙に異なる

大正12年(1923)10月8日 
第1回軍法会議
■殺害にいたる経過についての尋問
・前日の状況
「十五日に帰隊するため自動事に乗りこもうとしたとき、淀橋警察署の署員から、明日は大杉を絶対引っ張りだしてやると言われました。大杉を呼び出すには藤田某の名前を使った方がいい、藤田は大杉のフランスへの渡航費を出してやっている、大杉には現内閣の某大臣からも金が出ているとも言っていました」

*「藤田某」
藤田勇。昭和7年の5・15事件、翌年の神兵隊事件、昭和11年の2・26事件などで黒幕といわれた男。昭和5年に桜会を結成して軍事クーデターを企てる急進派軍人の橋本欣五郎や大杉栄ともパイプをもっていた。
のち甘粕は、藤田から政治工作資金の提供を受けていた橋本欣五郎に接触して、満州の謀略工作に加担することになる。
*「現内閣の某大臣」
内務大臣後藤新平。大杉の『自我傳』によると、大杉は後藤に金の無心に行った時、大杉が「政府が僕らを困らせるんだから、政府に金を無心するのは当然」と言うと、後藤は「ようごわす。差しあげましょう」と答えたとある。金を無心にきた大杉に気前よく大枚をくれてやった話は、専門家筋の間では当時からよく知られていた。

「それで翌十六日、森曹長、本多上等兵、平井伍長を連れて、大杉の居所に出かけました。むろん大杉を殺すつもりで出かけたのです。淀橋署でも私らの目的はわかっていたようです。しかし大杉は朝出かけたようで、居所にはいませんでした。けれど大杉は近頃では自警団を非常に怖がっているので、夕方には必ず帰ってくるとのことでした」
(大杉はこの日、鶴見に避難していた弟の勇の震災見舞いをするため、新宿から日比谷行きの乗合自動車に乗り、日比谷で乗り換えてまず品川まで行った。そこから京浜電車で川崎に行き、あとは徒歩で勇の避難先に向かった。そこに預けられていた宗一少年が、東京の火事の焼け跡が見たいというので連れて帰った)

- 大杉が帰宅するのをどうやって待っていたのか。
「淀橋署で大杉の家を張り込んでいるのは困るといわれたものですから、彼の家から二丁ばかり行ったところで待っていました。そこへ井上とかいう尾行巡査がやってきて、大杉が帰ったことを知らせてきました。間もなく、七、八歳の子どもを連れた夫妻が姿を見せましたので、同行を求めたのです」

- どういう理由を言って同行を求めたのか。
「何も理由は申しません。ただ同行してくれと言っただけです」

- 野枝と子どもはどういうつもりで同行させたのか。
「別に大した理由はありません。ただ連れて行った方がよいだろうと思ったからです」

- 大杉だけを殺す目的なら、何も野枝や子どもまで同行させなくてもよかったのではないか。
「ただいま申しあげた通り、全員連れて行った方がよいだろうと思ったからです。もっとも、場合によっては野枝も片づけるかもわからん、という考えはありました。けれど、そうはっきり決めていたわけではありません」

- 最初から殺さぬつもりで同行したものを場合によったら殺す考えだとは,何だかよく意味がわからない。そもそも子どもは誰の子と思っていたのか。
「むろん大杉の子だと思っていました」
(甘粕は最初、淀橋署まで3人を連行し、淀橋署前に停めてあった自動車に乗せて運ぼうと思ったが、女子どもを淀橋署まで歩かせるのはかわいそうなので、野枝と宗一は淀橋署員と連携してそこまで尾行してきた東京憲兵隊上等兵の鴨志田安五郎の自動車に乗せ、大杉は淀橋署に徒歩で連行後、甘粕、森と一緒の車に乗せて大手町の憲兵隊本部に向かった。午後6時半頃のことだった。)

ー 三人を連行した憲兵隊ではいかなる方法で殺そうとしたのか。
「憲兵として殺すのではなく、私個人としてヤッツケるつもりでしたから、なるべくわからないようにやろうと思いました。銃器を使えば,銃声でわかってしまうので、手で絞め殺そうと思いました」

ー 殺害後の覚悟はどうだったか。
「他日必ず知れると思っていましたから,当然罪を負う覚悟でした。私は単に大杉一個を殺すだけで足りるとは思っていませんでした。堺利彦や福田狂二らの危険分子は片っ端からヤッツケるつもりでした」

(30分の休憩)

- 大杉栄を殺害したのはどこか。
「憲兵司令部の階上応接室です。そこには私が命じて、森曹長が連れて行きました」

- 森に殺害のことを話したか。
「話したかどうかはよく記憶していませんが、森は私の殺意を推知していたと思います」
「しばらくしてその部屋に行くと、森は大杉と何事か話していました。私は一言も言葉を交わさず背後に回り、大杉の喉の部分に後ろから右手をまわし、その手で左手の手首を握って、締めつけました」
(甘粕はそう言って両手をあげ、大杉を絞殺したときの仕種を再現して見せた。)
「さらに締めつけると、大杉は少しもがき椅子を半回転ほどさせて右の方から落ちました。それから右脚を折り曲げて尻の下に敷き、左膝を立てた折敷(おりしき)の姿勢とは反対の姿勢をとり、右手を大杉の背にあてる柔道の絞め手で手をゆるめずにいると、大杉は十分くらいで絶命しました」

(検察官調書では、甘粕は右膝頭を大杉の背骨にあて、柔道の絞め手で絞殺しました、と述べているが、ここでは右手を大杉の背にあて、と微妙に食い違っている。殺害した本人が、殺害方法を間違えて記憶しているとは常識的には考えられない。)

- その後、麻縄で首を絞めたのか。
「そうです。別に麻縄で絞めなくともよかったのですが、万一息を吹き返すといけないと思ったので、念のため巻きつけたのです」

- 大杉を殺害するとき、森はどうしていたのか。
「ボンヤリ立っていましたが、私が命じて大杉のもがく足を押さえさせました。そのとき私は眼鏡を落としましたが、殺してしまってから自分でとりあげてかけました。殺したのは八時二十分頃で、連行してから一時間半くらい経っていたと思います」

ー 大杉を連行してから大杉と会話をかわさなかったのはなぜか。
「会話をかわしては工合いが悪くなるだろうと思ってかわしませんでした。森に命じて部屋に入れさせたのですが、私は別室にいた子どもがかわいそうになり、子どもにやる菓子をもっていってやったりしていました。大杉や野枝にも食事を運ばせ、私も事務室に戻って食事をすまし、それから事務をとりました。
大杉に対してほ渡仏後や震災後の活動状況を開こうと思っていましたが、仕事の都合で落ち着いて聞くことができませんでした。私の代わりに森に聞かせようと思いましたが、森ではわからないだろうと思い、大杉を入れた部屋に行き、何も聞かぬまま殺害に及んだようなわけです」

(午前の尋問はここで終わる)


つづく



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