2017年9月12日火曜日

【増補改訂Ⅱ】大正12年(1923)9月3日(その3) 江東区/永代橋・越中島付近/大島の証言 「9月3日大島7丁目に於て、鮮人放火嫌疑に関連して支那人及び朝鮮人300名乃至400名3回にわたり、銃殺または撲殺せられたり。」

【増補改訂Ⅱ】大正12年(1923)9月3日(その2) 葛飾区、北区の証言 「荒川の船橋(渡し)のあたり、赤羽寄りに20~30名の死体が浮いているのを目撃した。朝鮮人の死体だと言われたのを覚えている。また、上野駅でトラック一杯の血まみれになった朝鮮人を見た。」
より続く

大正12年(1923)9月3日

〈1100の証言;江東区/永代橋・越中島付近〉
内田良平〔政治活動家〕
1日午後6時頃深川門前山本町17番地近江湯〔略〕逃げ去らんとする鮮人あり、民衆の見出す所となり捕縛の上現場に於てこれを殺さしたり。
〔略〕3日午前3時半、相生橋側商船学校正門前に於て鮮人1名群衆の手に取り押えられたる。〔略。さらに〕一人を捕えて群衆と共にこれを撲殺したるがその男も〔略〕この鮮人と同類に疑いなし。〔略〕殺した場所は商船学校の焼跡を過ぎて正門より約4丁ばかりの広場にして死体は茶色の「アンダーシャツ」を着し、半股引と黒の靴下に護謨足袋を穿きたる22、3歳位の鮮人にして〔略〕。
同日〔3日〕5時半頃深川側の永代橋の永代橋交番所の後方鉄材を置きある場所に12、3名の鮮人屍体あり。
〔略〕当日深川に於ける光景は、家の焼跡に人々血眼となり棍棒或は抜身を持ちながら、通行者ある毎に鮮人にあらずやと注視しつつあり、凄惨悲愴の状戦国時代もかくやと思わしめたり。
(内田良平『震災善後の経綸に就て』1923→姜徳相・琴秉洞編『現代史資料6・関東大震災と朝鮮人』みすず書房、1963年)

澤田豊〔当時16歳。池袋の学校から電車で所沢へ帰る途中で被災、歩いて帰宅〕
3日、親類を探して深川をめざす〕深川寄りの永代橋の所まで来ると、橋のたもとに筵(むしろ)がかけられた数人の死体があり、これに2本の竹槍が上から突き刺してありました。誰がこんな惨いことをしたのか・・・? 不逞朝鮮人の殺害された姿だときかされました。何故殺されたのか知る由もありません。
〔略。3日、黒江町から本所石原への途中で〕猿江町の誰々さーんとやっている私の前を歩く我々の長老金井さんが、突然ポカポカとやられて頭を両手でかかえて伏せになりました。そして数人の人が、無抵抗の金井さんに追い撃ちをかけるではありませんか。
呆気にとられていると・・・何?・・・朝鮮人だ・・・と大声で喚きながら、なおもまわりから野次馬がとんで参ります。これでやっと事情がのみこめた私は・・・金井さんは朝鮮人と間違えられた。放っておくと殺される・・・と判断するやいなや脱兎のように人の群にとび込んでゆき待ってくれ、待ってくれ、日本人だ・・・半分泣きながら金切り声で叫んだように記憶致しております。
子供の声はよく通るとみえまして、これを聞きつけた人が私の頭の上でどすの効いた声で・・・おーい待ってやれ・・・とストップをかけてくれました。見れば猿又一丁の、やはり焼け出された人のように見えました。
・・・それから間もなく、銃を肩にした兵士が、針金でうしろ手に縛り上げた人を連行して来たではありませんか。この人は泣きながら朝鮮語で自分の無実を訴えている様子でありましたが、誰一人見向きもしません。
(澤田豊『雑草のごとく』私家版、1984年。自費出版図書館所蔵)

須田イネ〔当時深川区藪矢尋常小学校2年生〕
〔埋立地で〕3日目の明方になると〇〇〇〇人がくるというのでみんなで向うのおかへいきました。その時ひばりばしがやけおちて通れませんので船で渡りました。お父さんはざいごう軍人のなかまで〇〇〇〇人をころすので私やお母さんや、おばあちゃんや、よね子や、とみ子などはお父さんにわかれました。
(「9月1日のぢしんと火事」東京市役所『東京市立小学校児童震災記念文集・尋常二年の巻』培風館、1924年)

真野房江〔当時東京市立京橋高等小学校普通科1年生〕
〔越中島で〕3日の日には朝鮮人さわぎて人々は竹やりをもって鮮人をおいかけておりました、よるも又そのとおりでありましたので私はちっともねられませんでした。
(「大震災遭難記」東京市立京橋高等小学校『大震災遭難記』東京都復興記念館所蔵)
陸軍「震災警備の為兵器を使用せる事件調査表」
〔3日午後〕洲崎警察署より護送援助を請求せられたる特務曹長島崎儀助の命を受け巡査5名共に洲崎にて暴行せし不逞鮮人約50名を同署より日比谷警視庁に〇〇〇永代橋に至りたるに橋梁焼毀し不通のため渡船準備中1名の鮮人逃亡を始めしを動機とし内17名、突然隅田川に飛込みしを以て巡査の依頼に応し実包17発を河中に向て射撃す渦中に入らずして逃亡せんとせし者は多数の避難民及警官の為めに打殺せられたり
(松尾章一監修『関東大震災政府陸海軍関係資料第Ⅱ巻・陸軍関係史料』日本経済評論社、1997年)

〈1100の証言;江東区/大島〉
岩崎留次郎〔当時大島7丁目在住〕
〔3日は避難民の炊き出しに追われ、夕方虐殺現場に出かけた〕中国の人たちは幾重にも取り囲まれて逃げられるような状況ではなかったよ。無残なことだった。
(仁木ふみ子『震災下の中国人虐殺』青木書店、1993年)

篠田英
〔3日〕日暮れに近く私は小名木河べりを中川まで歩いた。〔略〕忙しそうな往き来の人々に混じって、物々しい扮装の人達が三々五々群をなして駆け回っている。彼等の手にしている、白刃や竹槍は、その用途を考える時、憤りと不快との激しい悪感を与えた。私は彼等が鮮人を迫っているのだということをすぐに知った。〔略〕大騒ぎをしていることは聞いていたけれども、これ程まで愚かしいものとは想像さえもしなかった。〔略〕「数百名来襲!」と得意気に触れ歩く褐色服の伝令は、或はその命令者は、数百人の群衆を何処で何時『見た』のであろうか。一個の人としての眼付きと群衆としての眼付き - 認識の全き缺無と温情と親切との乾涸(ひか)らびた眼付きとの甚だしい相違を見ることは悲しいことであった。
〔略〕避難所〔大島5丁目の広場〕に帰った。暗くなるにつれてこの近所も騒がしくなってきた。武装した兵隊が、狭い路をいやが上に狭くしていた。
1町ばかり先の河岸で××の×が続け様に聞こえ、同時に群衆の××があがった。やがてその事件の起こった場所から人々が帰って来た。「好い気味だ」「・・・では一ぺんに何十人もやっつけたんだ」という言葉が空洞のような響を立ててがなり散らされた。夜、蝋燭の灯の乏しい照明の下で足を宙に狂っている姿は、悪夢の中に踊っている者の如くであった。
(「一つの経験」『思想』1923年10月号、岩波書店)

広瀬久忠〔警視庁外事課長〕
目下東京地方にある支那人は約4500名にして、内2千名は労働者なるところ、9月3日大島7丁目に於て、鮮人放火嫌疑に関連して支那人及び朝鮮人300名乃至400名3回にわたり、銃殺または撲殺せられたり。
第一回は同日朝、軍隊に於て青年団より引渡しを受けたる2名の支那人を銃殺し第二回は午後1時ごろ軍隊及び自警団(青年団及び在郷軍人団等)に於て約200名を銃殺または撲殺、第三回は午後4時ごろ約100名を同様殺害せり。
右支鮮人の死体は4日まで何等処理せられず、警視庁に於ては直に野戦重砲兵第三旅団長金子直少将及び戒厳司令部参謀長に対し、右処理方及び同地残余の200名乃至300名の支那人保護方を要請し、とりあえず鴻ノ台兵営に於て集団的保護をなす手筈となりたり。〔外務省宛報告〕
(外務省『大島事件その他支那人殺傷事件』→田原洋『関東大震災と王希天事件』三一書房、1982年)

黄子蓮(ファンズリェン)
3日昼ごろ、8丁目の宿舎に大勢の軍隊、警察、青年団、浪人たちがやってきて「金を持っている奴は国に帰してやるからついてこい」といって174人を連れだし、近くの空き地へ来ると「地震だ伏せろ」といって全員を地に伏せさせ、手にした棍棒、鳶口、つるはしなどでなぐり殺した。私は殴られて気をうしなったので死んだと思われて捨て置かれた。夜中に痛みのために目をさまし、死体の中をはうようにして蓮池のそばで一昼夜を過ごし、5日に7丁目の駐在によって小松川署に送られ、さらに習志野収容所に送られて10月に帰国した。
(関東大震災80周年記念行事実行委員会『世界史としての関東大震災 - アジア・国家・民衆』日本経済評論社、2004年より抜粋)

丸山伝太郎〔牧師、留学生寮翠松寮主。事件後現地調査を行う〕
3日の朝、大島8丁目付近の住民は外へ出るなと命じられていた。午前8時、2発の銃声がとどろいてそれが合図であるかのように剣付き鉄砲の兵士2人が大島6丁目の中国人宿舎に来て中国人労働者たちを屋外に整列させ、8丁目の方へ裏通りを引き立てて行った。大勢の民衆が兵士たちと共に取り囲んで行くのを「どこに連れて行かれるのだろう」と近所の主婦たちが見ていた。
(外務省外交史料館所蔵・支那人被害救済に関する件4顧維釣外交部長書簡添付史料『1923年11月9日、18日の丸山らの調査報告書』→(関東大震災80周年記念行事実行委員会『世界史としての関東大震災 - アジア・国家・民衆』日本経済評論社、2004年より抜粋)

湊七良〔労働運動家〕
3日から大島3丁目の古い友人の2階を仮の宿にした。近くの大島製鋼所方面でピストルの射撃する音が聞こえてくる。朝鮮人さわざではないかと直観した。とにかく出てみた。大島製鋼所の周辺に葦の生えた湿地帯があった。その付近で、憲兵がピストルをかまえて何かを探し、追及している構えであったので、私はその憲兵に何を探しているか問うたところ、飲料水に毒を投げた鮮人がこのアシの中に逃げ込んだというのである。とうとう憲兵と自警団(在郷軍人団)に追い詰められて25、6歳の青年が、頭をうちぬかれて無惨に殺されてしまった。
亀戸の五ノ橋に朝鮮人婦人のむごたらしい惨死体があるから見て来い、といわれた。〔略〕近くもあることだから行って見た。〔略〕惨殺されていたのは30ちょっと出た位の朝鮮婦人で、性器から竹槍を刺している。しかも妊婦である。正視することができず、サッサと帰って来た。
(「その日の江東地区」『労働運動史研究』1963年1月号、労働旬報社)

陸軍「震災警備の為兵器を使用せる事件調査表」
9月3日午後3時頃、大島町八丁目付近で野重1ノ2砲兵70名・騎14騎兵12名が群衆・警官とともに朝鮮人200名を殺害。〔備考に「本鮮人団は支那労働者なりとの説あるも軍隊側は鮮人と確信し居たるものなり」と記されている〕
(松尾章一監修『関東大震災政府陸海軍関係資料第Ⅱ巻・陸軍関係史料』日本経済評論社、1997年)


続く




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