2017年12月10日日曜日

『大航海時代の日本人奴隷 アジア・新大陸・ヨーロッパ』を読む(3) 序章 交差するディアスポラ - 日本人奴隷と改宗ユダヤ人商人の物語(3)

北の丸公園
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1592-1597
マニラは1582年以来、ポルトガル商人(とくにマカオのポルトガル商人)が頻繁に訪れる港となっていた。それは、セバスティアン・ジョルジという有力な商人が、フィリピン総督ドン・ディエゴ・デ・ロンキージョに対し、マカオ~マニラ間の商船の毎年の通商を交渉し、許可を得たことに始まる。
この二つの港町には、取引に携わるポルトガル人とスペイン人が数多く滞在していたため、ルイ・ペレスの隠された素性はいつでも暴かれる危険性があった。
しかし、ペレスはマニラでは比較的安全に1592年~97年の5年間を過ごした。ルイ・ペレスの息子たちは長崎と同じように自分たちの名前を変えていた。

1595年
1595年、長男フランシスコ/アントニオ・ロドリゲスは商売を拡大するため、父と弟をマニラに残してヌエバ・エスパーニャ(新大陸メキシコ)へ旅立ち、そこで仲介業者として働き始めた。

日本人召使いのミゲル・ジェロニモとヴェントゥーラ
ルイ・ペレスはマニラで、ベンガル人奴隷と日本人召使いガスパールに加えて、日本人召使い2人と朝鮮人奴隷1人を入手した。

日本人のうちの1人はミゲル・ジェロニモと名乗った。彼は1577年に生まれ、商人フランシスコ・マルテス(フランシスコ・マルティンス)からルイ・ペレスに対し、5年契約、40レアルで売られたという。もう1人の日本人召使いは、ヴェントゥーラという名前であった。この2人は、ガスパール・フェルナンデスとベンガル人パウロと共にルイ・ペレスの最期を看取ることになる。

朝鮮人の召使いは、ガスパールという名前で、豊臣秀吉の朝鮮出兵に際し、日本人の兵士たちに捕らえられ、長崎に連行され、そこからマニラへ送られたものだった。

これら日本人召使い2人と朝鮮人奴隷は、家事全般を担い、朝鮮人奴隷はルイ・ぺレスが偽物の聖遺物を売るのを手伝っていた。ぺレスは長崎に来る以前に沢山の十字架を集め、それらを砕き、骨の破片と一緒に詰めて持ってきていた。殉教者の遺骨であるとして、本物の聖遺物と見せかけて、マニラに住む日本人キリシタンにその壊れた十字架を売っていた。これらの遺骨は二六聖人のものとして取引されたと思われる。

1596年9月9日
ペレス一家の生活は、1596年9月9日の最初の告発によって崩れ始めた。

ドミニコ会士のディエゴ・デ・カスタ一ニェーダが「ロザリオのコンフラリア(信心会)の楽隊員で、奴隷のフランシスコが、インド、マラッカ、マカオからこの町に逃亡してきたユダヤ人がいると私に伝えにきた」と、異端審問所代表フアン・マルドナード(ドミニコ会士)に告発した。

同年10月21日、スンダ列島(スマトラ島、ジャワ島、ボルネオ島、スラウェシ島、バリ島、ロンボク島、スンバワ島、フローレス島、ティモール島など)出身のその奴隷フランシスコがサン・ガブリエル病院に現れ、ルイ・ペレスに関する証言をおこなった。彼は、「あるポルトガル人が、(禁令に反して)フィリピンからモルッカにかけて航海したと聞いた」、「カンパヤ(グジャラート)出身のイノセンシオという奴隷が、その人物が両系の祖父母共にユダヤ教徒であるクアトロ・クスタード(生粋のユダヤ人子孫であることを示す隠語)で、マニラの執政官の家にいると自分に告げてきた」と証言した。奴隷イノセンシオは、その人物はベンガル人と日本人の奴隷2人を所有していると告げた。

2人目の証言者は、インドのグジャラート出身で、自由民となっていた元奴隷ロベルト・ロドリゲスである。彼は、長年日本に住んでいた。彼の証言の大半は、ペレスが所有するベンガル人奴隷パウロと交わした会話に基づいていた。料理人であったこのベンガル人奴隷は主人ペレスの食習慣、長崎滞在中の一家に関する噂、マニラへの逃亡について詳細に話した。罪状の数を増やすため、4年前、ルイ・ペレスが十字架の前を通る際に帽子を取らなかったことが無礼であるとして、長崎で大騒ぎになったという逸話も暴露した。

この話は、日本人奴隷トメの証言からも確認できる。トメは、「ぺレスの息子のアントニオ・ロドリゲスが家で聖母マリアと聖人の像を壊し、9年間、日本でもフィリピンでも教会に通っていなかった、という話をペレス家の日本人奴隷から聞いた」と証言している。

商人の中には、ペレス一家を告発しようと、自分の奴隷を異端審問所の役人のところへ送りつける者もいた。彼らの証言から、ペレス一家の暮らしの詳細が判明する。
まず、バターと豚肉を食べないこと、月曜日、水曜日、金曜日には、洗濯した清潔な服を着ていること、土曜日には足を洗うこと、家には聖人像が一つもないこと、ドアを閉めて食事をすること、日本ではユダヤ教の儀礼に従って雌の子牛を殺していたこと、などの申し立てがおこなわれた。

マニラの異端審問所はこれらの告発と、目撃者たちの証言を照合して、決定的裏付けを得るためペレス家で働く日本人ガスパール・フェルナンデス、ベンガル人パウロ、朝鮮人ガスパールから証言を採ることにした。

最初の証言者は日本人ガスパール・フェルナンデス
自分の発言がどのような結果をもたらすかを知らないガスパールは、ペレスは豚肉を食べず、次男のマヌエル・フェルナンデスは豚肉を食べるとすぐに吐き戻したことを述べた。他に、召使いがニワトリを殺す際は、首を切断するのではなく溺死させなければいけなかったこと、教会当局からの許可の下、ぺレスが四旬節と毎週土曜日に肉を食べていたことを認めた。次男のマヌエルは金曜日、土曜日、四旬節には決して肉を食べなかったこと、毎週土曜日、ペレスと息子たちは洗濯をした服を着ていたこと、十字架、キリスト、聖母マリア、聖人の像は持っていなかったこと、ぺレスは祝日と土曜日に、教会内でのみ新穂を捧げたことなどを証言した。

2目の証言者はベンガル人パウロ(30歳)
彼はぺレスの終身奴隷で、ルイ・ペレスのことをコチン時代から知っていた。彼の証言は日本人ガスパール・フェルナンデスのものとは大きく異なっていた。パウロは、食事用のニワトリを溺死とは異なる方法で殺していたこと、ルイ・ペレスも息子たちも豚肉と少量のバターは食べていたこと、家には聖母像があり、ユダヤ教の儀礼は一切実践されていなかったこと、日曜日と祝日には教会でミサにあずかっていたことなどを証言した。異端審問所での秘密は厳守し、証言内容を後で話さないと誓ったにもかかわらず、パウロは家に戻るやいなや、3時間にわたって主人に対し、受けた質問の内容を詳しく話した。ルイ・ペレスは悲嘆に暮れ、動揺し、目を赤くして泣いた。パウロは主人に対して誠実な下僕であった。

3人目の証言者は朝鮮人ガスパール(18歳)
彼は、ペレスに審理内容を話したとして、仲間のベンガル人パウロを糾弾してその命を危険にさらした。彼は、主人は部屋には聖人像を置いていなかった、最近それらを購入し、毛布に包み、ベッドの下に置いていると証言した。

これら3つの証言、とりわけ日本人ガスパール・フェルナンデスと朝鮮人ガスパール・コレイアの証言は、異端審問所にとってぺレス一家が隠れてユダヤ教を実践していたことの確証に必要な証拠となった。

1597年6月11日
1597年6月11日、異端審問所の官吏イシドロ・サンチェスは、フアン・ルイス、アロンソ・エルナンデス、フアン・ルカスらと共にペレスの家を訪れ、ぺレスを逮捕した。ぺレスは刑務所へ送られ、イシドロ・サンチェスは彼の全財産を没収した。

1597年11月29日
1597年(日付不詳)、ルイ・ペレス、日本人奴隷3人とベンガル人奴隷1人を乗せたガレオン船ヌエストラ・セニョーラ・デル・ロザリオ号が、ぺドロ・セディル・デ・グアルカ船長の指揮の下、アカプルコへ向けて出発した。

異端審問所はぺレスに対して有罪判決を下したが、ガレオン船がアカプルコ港に入る2日前に彼は船上で病没した。遺体は1597年11月29日のシャバトの日(安息日)に、海中へ遺棄されたと推察される。

(つづく)





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