2018年5月7日月曜日

「『草枕』の那美と辛亥革命」(安住恭子 白水社)編年体ノート22 (明治39年)

皇居東御苑
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明治39年
『草枕』発表 漱石にとっての『草枕』
『草枕』は、明治39年8月27日発行『新小説』9月号に発表された。
漱石の初めての小説『吾輩は猫である』第1回目の発表は前年1月。その年だけで、『倫敦塔』『カーライル博物館』『幻影の盾』『琴のそら音』『一夜』『薤露行』を、翌年のこの年には、1月『趣味の遺伝』、4月『坊ちゃん』、8月『草枕』、10月『二百十日』、そして翌年1月の『野分』と続く。その間、『猫』シリーズを書き続けている。しかも、東大と一高の教師をしながらである。
『草枕』は、『猫』最終回を書き終えた10日ばかり後の7月26日に書き始め、2週間ほどの8月9日に脱稿している。8月3日から1週間で書いたという説もある。

「是は小生の芸術観と人生観の一部をあらわしたもの故、是非御覧被下度。来月の新小説に出で候」と、8月12日付深田康算宛の手紙に書いている。『吾輩は猫である』を研究したいと申し出てきた女性記者に対しては、『草枕』読んでくれればいいのに、と漏らしている。漱石のこの作品に対する自負と高揚のほどが伺える。

漱石は闘ってていた。
一つは、ただ人情だけを描いて事足れりとしている在来の小説に対して、もう一つはこの時代そのものに対して。その二つは不即不離であった。この時代にもてはやされる芸術とこの時代そのものに漱石は大いに不満を持っていた。その溜まった怒りのエネルギーが、『猫』以来の創作となって爆発した。そしてそのことを明確なテーマにして描こうとしたのが『草枕』だった。芸術論を前面に押し出してはいるが、その背後には文明批判、社会批判がある。「兎角に人の世は住みにくい」が、冒頭にくる。

ロンドン留学中に書いた「明治三十四年四月頃以降」とされた漱石『断片』(「一」~「七」)に当時の考えをアトランダムに述べている。

「一」は、次のように始まっている。

(一) 金の有力なるを知りし事
(二) 金の有力なるを知ると同時に金あるものが勢力を得し事
(三) 金あるものの多数は無学無知野鄙なる事
(四) 無学不徳義にても金あれば世に効力を有するに至る事を事実に示したる故、国民は窮屈なる徳義を棄て只金をとりて威張らんとするに至りし事〔略〕

この項目は(八)まで続き、さらに西洋人と日本人の違いについて詳しく述べた後段では、以下のように記している。

「日本人は創造力を欠けたる国民なり。維新前の日本人は只管支那を模倣して喜びたり。
維新後の日本人は又専一に西洋を模擬せんとするなり」。

また、「四」の中には次のような文章がある。

「美は事実なり。大部の人は(1)連想にて之にその物以外の意味を付着す。従ってその物の美が実際より増し又は減ず。それはそれにてよし。但し美その物と連想とを区別する必用あり。多くの場合は連想その物をも美の原素として看做すの幣あればなり」とし、次のような例を挙げている。

花は紅、柳は緑               是事実なり
花の紅、柳の緑の奥には一の力あり  是Wordsworth
花の紅、柳の緑の奥には神あり     多数の詩人

このように、『草枕』に見られる社会批判と美についての認識は、留学当時から漱石の中では明確になっていた。そして『草枕』執筆当時は、単なる拝金主義批判ではなく、資本主義がもたらす文明というものが人間をどのように追いつめていくか、という考察にまでなっている。

最後の停車場でのシーン。
「汽車ほど二十世紀の文明を代表するものはあるまい」と書き出して、人間が荷物のようにおとしめられていることを辛辣に指摘する。そしてこう続ける。「汽車ほど個性を軽蔑したものはない。文明はあらゆる限りの手段をつくして、個性を発達せしめたる後、あらゆる限りの方法によってこの個性を踏み付けようとする。一人前何坪何合かの地面を与えて、この地面のうちでは寝るとも起きるとも勝手にせよと云うのが現今の文明である。同時にこの何坪何合の周囲に鉄柵を設けて、これよりさきへは一歩も出てはならぬぞと威嚇かすのが現今の文明である」(十三)。

近代以降の文明が、一方では自由の意識を与えながら、もう一方ではせまい檻に閉じこめ、個性を奪って同じレールの上を走らせるような、矛盾したシステムを持っているという指摘である。

もう一つの闘いは、『断片』「四」で語るように、芸術の根本として「美は事実なり」を主張すること。
ウィリアム・ワーズワースや多くの詩人のように、花や柳の美の中に〈力〉や〈神〉を連想し、そのテーマによって美を語るのではなく、芸術家はまっすぐに花の紅、柳の緑に美そのものを見出さなければならないと主張する。

『草枕』の「三角のうちに住むのを芸術家と呼ぶ」(三)。
「怖いものもただ怖いものそのままの姿と見れば詩になる。凄い事も、己れを離れて、ただ単独に凄いのだと思えば画になる」ということだ。
美そのものと、連想される〈力〉や〈神〉を混同してはいけない、区別されなければならない。だが俗界の欲得で曇った目は、その区別が出来ず、「ターナーが汽車を写す迄は汽車の美を解せず、応挙が幽霊を描く迄は幽霊の美を知らずに打ち過ぎるのである」。

このように、『草枕』は二つの意味で闘う小説であった。
『断片』が示すように、イギリス留学以来、その問題を神経衰弱になるほど思いつめてきた。当時の親しい友人に宛てた手紙には、その表明が多く見られる。

明治39年10月23日付の狩野亨吉宛ての手紙。
当時京都帝大文科大学初代学長であった狩野からの、教授にならないがという誘いを断る内容で、長文の手紙を2通、同日に送っている。理由は東京にいて文芸で闘いたいから。

第一信では、「自分の立脚地から云うと、感じのいい愉快の多い所へ行くよりも、感じのわるい、愉快の少ない所に居ってあくまで喧嘩をして見たい。是は決してやせ我慢じゃない。それでなくては生甲斐のない様な心持ちがする。何の為めに世の中に生れているかわからない気がする」といい、「打死に覚悟」の決意を語る。

長文の第一信のあと、まだ言い足りないと思ったのか、風呂のあと第二信を書く。この決意するに至った松山以来十数年の胸の内を詳しく語り、最後をこう結ぶ。
「この不愉快及びこの不率を生ずるエヂエントを以て社会の罪悪者と認めて、これ等を打ち斃さんと力(つと)めつつある。ただ余の為めに打ち斃さんと力めつつあるのではない。天下の為め。天子様の為め。社会一般の為めに打ち斃さんと力めつつある。而して余の東京を去るは、この打ち斃さんとするものを増長せしむるの嫌(きらい)あるを以て、余は道義上現在の状態が持続する限りは東京を去る能わざるものである。草々不一」。

そこには闘争心と同時に、自分は闘うに足る人間だという強い自負も伺える。『草枕』や『二百十日』を書いた直後、そして翌年1月に発表する『野分』を書こうとしていた漱石の心のうちは、このような高揚した思いで満たされていた。『草枕』はそうした思いを比較的ストレートに出した作品だ。

英語圏で人気が高い『草枕』
世界的なピアニスト、グレン・グールドは『草枕』を生涯の愛読書にしていた。横田庄一郎『「草枕」変奏曲-夏目漱石とグレン・グールド』、同氏編『漱石とグールド』によれば、グールドは35歳の時に『草枕』英語訳を読み、「二十世紀最高傑作の小説の一つ」と公言してはばからなかった。
その死の枕元には『草枕』と聖書が置いてあったとされるが、聖書はあとから父親が置いたもので、実際には『草枕』だけがあった。従姉にこの本を丸々一冊、電話で読み聞かせたというエピソードもあるし、81年にはラジオで『草枕』第一章を朗読している。詳細な書き込みをした一冊をふくめ二、三の英訳本を持ち、さらに日本語版も持っていた。最晩年には、『草枕』のラジオドラマを企画して、そのため「志保田の娘のメモ」と題するノートも作っていた。

グールドにとって『草枕』は、彼自身が格闘していた、人生と芸術についての根本的な問題を語る作品だった。

ケヴィン・バザーナ『グレン・グールドー神秘の探訪』(サダコ・グエン訳)。
「『草枕』は、何よりも思索と行為、逃避と義務、西洋の価値観と東洋の価値観のぶつかりあいを描いた作品、そして『近代主義』への危機感を描いた作品である。こうした問題については、グールド自身がやっきになって答えを求めていた。『草枕』の冒頭は、理性と感情のバランスをいかに保つかという、グールドの人生の根本的ジレンマを要約しているという意味で、彼自身のモットーだったといえるかもしれない」。
「グールドは芸術を究極的には救済の道具と考えた。となればグールドは 『草枕』で漱石の描いた、芸術の士は 『人の世を長閑にし、人の心を豊にするが故に尊い』また『清浄界に出入りしうる』という信条を読んで、大いに共感を覚えたにちがいない」。

芸術家としていかに生きるか、どのような芸術をめざすべきかという問題について、『草枕』はグールドの気持ちにぴたりとはまった。

グールドは、ドキュメンタリーとドラマと音楽を融合した「孤独三部作」と題されたラジオドラマを3作品作っている。『草枕』はそれにつづく第4作として構想された。そのための準備ノートが37ページにわたる「志保田の娘のメモ」である。そのメモは、「ほとんどの部分が、区分けされた段落の要約のようなもの」(「北のピアニストと南画の小説家」、横田庄一郎編『漱石とグールド』所収)だそうで、このメモから「グールドがどんなラジオ番組を作ろうとしたかを想像するのは非情に難しい」らしい。

サダコ・グエンは、「画工と那美の会話が中心」でありながら、「聴くものの耳にまるでパイ皮のように幾層にもなった音が届く」「交響詩とよぶにふさわしい作品になったのではないか」としている。

それにしても、「『草枕』のメモ」ではなく「志保田の娘のメモ」である。それは、グールドが特に那美という存在に注目したことを示している。これについてサダコ・グエンは、「オフエーリアとの比喩が唯一の理由ではないだろう。漱石が描く南画の世界から、すっかり浮き上がってしまっているこの人物〔那美〕はひどく孤独であるからだ」と指摘する。それ以前の三作品が「孤独三部作」と呼ばれるように、グールドは孤独を愛した。そして引き続き那美の孤独をモチーフにしようとした。

『草枕』を掲載した雑誌は、発売2日後の29日には売り切れた。反響も大きく、「明治文壇の最大傑作」と評価する人もあった。友人、知人、読者からさまざまな感想が届き、新聞雑誌などに批評が載せられた。『草枕』の批評や感想だけで一冊の本を作ろうかなどという話が出たほどだった。

けれども、少し時間がたつと、『草枕』に対する漱石自身の高揚は幾分醒めていく。というよりも、狩野に書いた闘争心は、『草枕』を越えていく。
「只きれいにうつくしく暮らす、即ち詩人的にくらすという事は、生活の意義の何分〔の〕一か知らぬが矢張り極めて僅少な部分かと思う。で草枕の様な主人公ではいけない。あれもいいが、矢張り今の世界に生存して自分のよい所を通そうとするには、どうしてもイプセン流に出なくてはいけない」(10月26日付、鈴木三重吉宛)。
俗界から離れて芸術にのみ没頭することで闘いを表現するような、反語的表現ではやはりタメだ。イプセンのように、より直接的に社会に立ち向かう表現をする必要がある、という。

手紙は「只一つ君に教訓したき事がある」という書き出しで始まり、ともすれば自己陶酔に陥りがちな三重吉自身の文学傾向に向けた教訓である。

「僕は一面に於て俳諸的文学に出入すると同時に一面に於て死ぬか生きるか、命のやりとりをする様な維新の志士の如き烈しい精神で文学をやって見たい」。それがこの手紙の結論であり、漱石の芸術観と人生観の正面切った表出であった。

(つづく)




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